コメント |
2006/10/21 |
日本の経験・知恵を如何に活かすか
開発援助を受ける側からみて、国際機関や他の二国間援助機関、さらには民間ベースからのものと比較して、日本に期待しているものはなにか、それらに応えるだけのものを日本がもっているかどうか、といった「需要サイド」のしっかりとした把握と、この需要に応えるにあたって日本がベスト、あるいは比較優位性をもって提供できる「日本側の対応能力」、さらには、その対応をするにあたって・・・オール・ジャパンとしての協力の「整合性」について現在携っているインドネシアプロジェクトでの経験、およびこれまでの国際機関での経験をベースに述べさせていただきます。
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途上国からの需要: もっぱら教育分野については、・・・経済開発が徐々に再度重視され始めてきている現在、途上国のニーズということでもっとも必要とされているのは、中等・職業教育であるというのが、私の元来からの主張です。・・・(続)
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日本側の対応能力について: 需要に応じて適切かつタイムリーな対応を可能にするためには、当然にして供給側にとって可能な貢献可能分野のマッピング・・・は欠かせません。・・・(続)
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オールジャパンとしての整合性について: 援助に向かう体制・仕組みも、日本の中では一枚岩では無い・・・外務省型の援助の原則(機材等はプロジェクト終了時には相手側に供与)と、文科省型原則(供与機材等はプロジェクト終了時には日本に持ち帰り)というったところでも、立場はそれぞれおありかとは思いますが、ぜひ整合性のある、分りやすい形になればと願っています。
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2006/10/14 |
日本の経験とODA ODAの目的:途上国の貧困削減と経済成長を支援 ⇒ 国際社会の平和と発展に貢献
対象:主な直接の対象は途上国政府(即ち、公共政策とサービスの改善・拡充を通じて上記目的達成を支援する)。但し、必要、適当な場合は、途上国民間セクター・市民社会もODAで直接支援
戦略:上記目的に鑑み途上国にニーズがあれば何でも対応するという考えもあり得るが、
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日本経済社会へのリンクという国益の観点(例えば、ASEAN諸国の外国投資・貿易政策・制度の改善を支援する、またバングラデシュでは繊維産業関係は欧米向け輸出が主なので支援しないなど)
- 日本の得意分野を活かすという観点
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日本の支援について(そして日本について)、まとまりのある、positiveなイメージを打ち出していくという観点
―などに鑑みた「選択的、集中的」な支援を展開。
上記(b)の「得意分野」について
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まずは、途上国のニーズに合致し、途上国側に受け入れ準備があることが重要。(これは当然のことだが、往々にして援助側の自己満足や陶酔がニーズを「凌駕」してしまうことがある。そして、いつのまにか援助の目的が「途上国の貧困削減と経済成長」という焦点からズレていく。それを避けるには、日本のODA実施機関・関係者の現場の知見のみならず、途上国関係者から本音レベルの情報・見解が充分に引き出され、活かされていく仕組みづくりが重要。)
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あるセクター、或いはサブ・セクター全体に亘る場合と、その一部の側面に関係する場合がある。(例えば、一村一品運動や道の駅などは、日本のブランドと共に諸途上国に普及し、地域開発や農村開発という「セクター」内で重要かつプレゼンスのある役割を果たしている模様。)
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「得意」と判断できる「日本の経験」は成功体験のみならず、失敗も含めた体験もあり得る。ただ、「得意分野」と「判定」されるには、次のような条件がそろっていることが必要(或いはそうした条件が備わるような工夫が必要)
- 制度や手法といった「システム」として確立していること
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そのシステムは、途上国支援を行う他先進諸外国でのシステムや状況と比較して、秀でているか、或いは競合し得るものであること。(ただ、途上国において先進諸外国のシステムを補完する役割の場合は、先行システムと対立し、足を引っ張ることなく、素直にかつ効果的に補完の役割を果たせるものであること。)
- そのシステムを外に伝えるための理論や説明が体系化されていること。
- そのシステムを外に伝えるための人材がいること。
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2006/9/13〜10/7までの意見 |
グローバルな開発問題への取組みに日本の経験・知恵を如何に活かすか
「ODAの理念の一つとして、日本が持っている経験や知恵を、世界が直面する問題の解決に生かすという面をアピールできないか」との問題提起
【ポイント】
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日本の経験・知恵を活用するに際しては、内向きとならず、一般化・普遍化して世界水準の議論とすりあわせ、それに反映させていくことこそ大事。
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途上国が今後直面する新しい開発課題を先取りして、それに応える日本の経験・知恵を開拓・蓄積し発信するという姿勢も大切。
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このような知的作業と、その現場での実践、そしてフィードバックを行うためには一定のモメンタムと時間が必要。
アフリカ開発会議(TICAD)や日本サミットが開催される2008年に向けて、まずは日本の経験・知恵を一般化。普遍化し実践・アピールするための包括的な課題マッピングを始めることも一案。
特に第一ポイントの「日本の経験・知恵の重視は、世界水準の開発論議と矛盾するか」に関し、考える点は以下のとおり。
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基本姿勢としては、世界のベストプラクティスを十二分に理解した上で、日本としてそれを更に深めるべく貢献するためには、やはり日本の経験・知恵に立ち返る必要がある。
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世界のベストプラクティスを導入できるかというプロセス自体、日本の経験・知恵を活用できる。
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課題は、単に日本の経験・知恵を使えば良いといったレベルで留めるのではなく、それを深め、世界の最先端の議論と十分に対話してすりあわせること。
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結局何が一般的・普遍的な価値があるかは、途上国や民間セクター、そして現地のドナー・コミュニティの「市場テスト」で判断されることになる。
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会合出席者からのコメント
2006/9/13
12:47
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先日は、有意義な会でした。現在、出張で、前回の議論に関係するpppとODAの現場にきています。
PPPとODAの両者の関係を整理しないと、現場は戸惑うばかりではないでしょうか。察するところ、NGOの方々を含めOOF以降、民間ベースの経済協力については、あまり考えたことがないのではと思うのですが、如何でしょう。まずは、実態の把握をして、それがODAとどのような関係にあるのかを整理するという手順が必要かと思います。仮に、一つのカテゴリーとして考えるべきというのならば、同じ基準の透明性が求められると思います。 |
会合出席者からのコメント
2006/9/12
13:10
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昨日は、「ODAサロン」におよびいただき、まことにありがとうございました。厚く感謝申し上げます。
遠山政務官のお話を楽しく聴かせていただき、外務省内での議論を知ることは大変参考になりました。また、各界の皆様のコメントも勉強になりました。
今後の議論のために、未整理ながら、いくつか感じたことを記させていただきます。
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議論の焦点を、「何のために」「何を」「具体的に」と設定し、とくに「何のために」を照射する、という方法論に賛成です。ぜひそのように進めていかれることを希望しますが、そのためにも「何のために」=「哲学」を上手に議論することが鍵だと思います。
昨日の冒頭、「ODA」は「民間投資」となにが違うのか・・・・という問題意識が出ましたが、そういう視角から検討することは有意義であると思います。ただし、これはODA実施の方法論、効果の議論として、という側面ではないでしょうか。
現実に、アフリカに対するODAについて、JETROの平野氏が「ODAは時代から遅れている。FDIと経済経長との相関は見られても、ODAとのそれはほとんど見られない」という論拠からODAの変革を説いておられるのは一例ですね。そうした議論は面白いと思うのですが、わたしにとってやや不思議なのは、ODAを行う理由・意義の文脈として、この問題意識が提出された、という点にあります。民間セクターの行動原理だけで良しとするならば、そもそもODAなど不要であるのは自明のことであり、またいっぽう、政治・経済上の即時的リターンだけが目的であるのなら(あるいはそれらをODAによって得る「国益」のほぼすべてとする考え方では)、ODAの哲学などミもフタもないことになってしまう。民間投融資がもし貧困削減・経済成長に有効であるのであれば、ODAはそれにいかに関連するか、あるいはいかに支援するか、という方法論としては議論すべきですが、なぜ公的資源を再配分しようとするか、の理由とは違った問題と思います。もっとも、そもそもODAは要らない、ということを検証するためならば話は違いますが。
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日本国の信じるODAを有効に展開するために、諸外国の援助や国際機関に対して方針を立て律していく、という側面をぜひ議論していただければ、と思います。自らの価値観に基づいたODAを、違う値観と利害に基づいて行う他のODA(外国政府、国際機関)との間で、いかに協力・協調するかしないか、そして「闘争」も決して避けないで、うまく対処していくか、全体として自分の思う方向に引き寄せていくか、というのが「開発外交」のあるべき姿と思います。実は、まさしくそのために、世銀や国連グループに対して、日本国は「出資」をし、資金拠出をし、事業委託をしているはずなのであって、どうも、いまだに発想が逆(日本というファクターを除いて、国際機関が外部の所与として存在し、それにリアクトするのみ、という考え方)であるのが不思議です。国際機関への対処について、世界第一や第二の出資国であることの権利と義務意識がまだ浸透していないと思う局面が非常に多い。世銀や国連への拠出金の運用・評価はそれ自体として重要な問題でしょう。しかし、より根源的な議論(「なぜ」「なにを」)をしたうえで、「では具体的に拠出金はどうすべきか」という議論の展開が望ましいと思います。語弊を恐れず言えば、日本として国連グループと世銀をそれぞれどのように「使う」か、という大枠での議論があまりにもなさすぎると思います。
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わたしは「ODA」の目的・目標設定は基本的に哲学的問題であり、実施のための政策立案と運用は広い意味で技術的な問題であると考えたほうがわかりやすいのでそうしていますが、そのとき、「目的」表明のみならず、「政策立案と運用」の体系においてこそ、日本国の特色が出るし出すべきだ、と思います。つまり、「目的」という基本方針表明のみにおいて、日本国ODAの特徴が十二分に表現されるべきである、という強迫観念は要らないのではないか。「技術の体系」こそが、その実施者の思想をよく顕すわけで、双方のセットとして見ざるを得ない、あるいはそういう関係性で捕らえるべきではないか。これはいわずもがなと思われる事柄ながら、ともすれば「マニフェスト」や「大綱」的な文章のみでODA方針が全部規定されるべきかのような前提を感じることがありますので、記しました。
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その関連でいえば、わたしは日本国が信じてきた経済発展・貧困削減の根幹的な価値観のひとつは、いかに最近揺らいでおろうが、あるべき「官民協力」を追求してきたこと、その努力に関係したものではないか、という気がしています。その結果が、比較的な意味で格差の少ない経済成長だったのではないか。それは高度成長期はJapan Corp.として喧伝された、また「驕り」の時期を越して経済の失墜に伴って駄目なモデルとして批判された、また実は官僚はたいしたことはしてこなかった、とも言われた、戦後のキャッチアップモデルは超克しないといけないとも言われている・・・・云々と観察の諸相を見せ続けていますが、いっぽう、全体としては、経済社会の開発において、なんとかかんとか
「官民協力」をうまくマネッジしてきた国はそうそうないのではないか。アメリカの対外政策における「民主主義」信奉ほどわかりやすくは決してないですが、これは日本のODAの哲学のひとつになりうるのではないか。ただし、そう考えるときに、むしろ問題は、「ODA立案と実施体制」において、日本は「官民協力」がうまくできていない、とわたしには思えることです。本来、ODA実施機関、あるいはそれらと役所や機関同士の協力において、官・民の関係がまだ硬直的(「官」が決め、「民」は実施する、など)、また、「民」の活用が閉鎖的すぎる、という気がします。「民」の全体も活用されていない。「開発援助」が、狭い、開発部落の問題として扱われすぎている。皆、途上国開発をあまりにも特殊なものとして見すぎている。経済成長も、金融政策も、橋の建設も、途上国専用モデルなどないはずなのに・・・。この文脈では、ODA実施における「開発のプロ」の存在意義というのは、「プロ」が開発部落の特殊人を意味するのだとすると、わたしは必ずしも賛成できない気がします。さまざまな専門家が途上国開発援助に、より活発に、より垣根なく動員さ
れるには、根本的にどうするべきかを考えなくてはならない。
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「外交は票にならない」、あるいは「国民は途上国開発などに興味がない」と言った困難な環境については、それは確かにあるし、難しい問題だと思います。ボランティアや寄贈に対する社会通念や慣習の希薄さについては、最近変わりつつあると感じる反面、やはり裾野が狭すぎる、と感じることも事実です。しかしながら、こうした点で他国に比べて相対的に日本のほうが著しく困難であるということは果たして言えるのだろうか、とも思います。アメリカを例に出しても、皆知っているように、「田舎」で得られる海外情報は極端に少なく、途上国はおろか他の地域・州のことも興味がない、というのはざらでしょう。地域の新聞を見ればそれは一目瞭然です。インターネット時代においても、です。ところが、日本は津々浦々大新聞がいちおう情報として「国際欄」を届けるわけです。貿易立国であるがゆえの海外の卑近さなども、なにも「中国にやられている」というネガティブな感情を醸成するばかりでもないでしょう。とすれば、もしODAと国民の距離が他国に比べて遠いのだとしても、それは、ひとえに政策とコミュニケーションの問題が原因である、と考えたほうがより対策を練るのに役立つのではないでしょうか。
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