ODA Salon
National Graduate Institute for Policy Studies |
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「新しい日本のODA」を語る会 |
Last updated 2 April 2007 |
コメント紹介コーナー |
第6回ODAサロン:幹事による第6回会合の概要 |
【阿部正俊議員による冒頭発言のポイント】
【犬塚直史議員による冒頭発言のポイント】(平和構築への取り組みを例に説明)
【意見交換・質疑応答】
【雑感】 国際協力の両輪としてODAと非ODAがあること、非ODAの部分を拡充していくことがODAをよくすることにもなること、内政と外交を密接にして国民の国際協力についての問題関心を高める必要性、そのためには「ODA予算」だけの議論・攻防ではなく、より幅広い視点にたって税制・人材(例えば、国内と海外をつなぐ国際協力人材プールづくり)を含めて非ODAを担う民間やNGOの活力を底上げしていく取り組みが必要であることなど、貴重な視点の提起があったと思います。 またODAと非ODAとの役割分担を認識したうえで「何のためODAか」を議論し、それを国民に示したうえで、消費税の1%を充当等によりODAを3倍程度増やしてもよいのではないか、との問題提起は建設的だと思いました。 |
コメント | |
2007/3/22
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第6回「新しい日本のODA を語る会」議事録を拝見しました。いくつかコメントさせていただきます。
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2007/3/7 当方にて若干、編集(削除)しております。 |
今回、考えさせられた点は次の通りです。
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2007/3/10 当方にて若干、編集(削除)しております。
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ODAの意味は4つのカテゴリーがあるのではないかと思います。
このうち1は意味がほとんど薄れているのでしょうが、2-4までのどこに重点をおきたいか、おくべきかということが論点なのだと思います。 日本人にとって利があるのは3と4なのでしょうが、ある程度2に起因した人助けをしなければ4における効果が薄れると思います。もちろん、4における経済関係の強化それ自体が、3における外交、防衛、経済利権の強化にもつながりますので、実際、これらはなかなか切っても切れない関係にあるのではないかと思います。 さて、活動の場の問題です。他のところはあまり知りませんが、ワシントンでのIMFと世銀に関していえば、日本人の職員数がかなり少なく、一生懸命探しているところです。少なくともIMFでは、オフィシャルに日本人はunderrepresentativeとされ、日本人の応募があれば少なくとも門前払いはせず、面接まではこぎつける率が高くなっているはずです。しかしながら、一向に改善の気配がみえません。 思うに、グローバルな労働市場での競争は国際機関にもあり、たとえば中国人であれば、大学からアメリカに来て大学と大学院で優秀な成績をとり応募してくる人が多いのに対し、日本人でこのような経歴を持つ人は少なく、その結果採用にむすびつきません。日本人ももっと英米に留学すべきだとは言いませんが、そうしない場合、英語のハンディを日本にいながらどう克服するかが問題ではないかと思います。日本において、日本語でできる国際協力の職場を増やせばいいのでしょうが、それはどうして増えないのでしょうか?これはODA予算の額にもよりますが、民間の活動団体がどうして増えないかということでもあると思います。やはり、キリスト教的な寄付心がなければ、民間の国際協力団体がなりたたないのでしょうか? |
2007/3/10 当方にて若干、編集(削除)しております。
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私は上記2の動機でこの世界に入りましたが、クライアントが日本政府である場合には、3、4にも十分配慮する、という姿勢で仕事をしております。 仮に3、4にしか興味のない方々でも、それらの意図を日本以外の人に説明する場合には、レトリックとして2を使わざるを得ないのだと思います(個人的にはイギリスにそれを感じます)。その際に、魂が入っていなければ、早晩張り子の虎であることがわかってしまうわけで、それを理解すれば、2の意味でも本気で取り組まなければいけないことになるのではないかと思っております。 「活動の場」の問題ですが、私も開発専門家養成コースに関わってきており、常に頭を悩ませております。最近の流れですと、いくつかの利益追求的企業のCorporate Social Responsibility (CSR)部門で、短期的にでも、働き口を求める方が増えているように思います。Bill and Melinda Gates Foundationがマラリアを始めとする感染症の分野で存在感を示しているように、民間部門が「本業」のみならず、CSRとしても、社会貢献する意義は大きく、それと国際協力をつなぐ人材も必要とされていると感じます。 |
2007/03/11 00:26 当方にて若干、編集(削除)しております。
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日本は貿易立国で世界の国々と付き合わなければ生きてはいけない国だと子供の頃に習ったことを良く覚えています。そんな日本がここまで豊かになったのですから、それなりの役割を果たすことは当然だと思います。途上国の側から見ると、豊かな日本が援助を減らしていることに理解を得られるのかどうか大いに疑問です。国際機関へ出す資金も減り、日本の影響力が益々低下することも鑑み、もしかすると本当に危機的状況にあるのかもしれません。
上記2の「純粋に貧者を助けたいと思う気持ち」がなくては、そしてそれに魂が入っていなければ相手に見透かされてしまうというご指摘に賛同します。援助は世界の国々と共生するための手段でもあるのですが、相手の国に役に立たないものであれば日本にとっても意味がありません。途上国の政府も国民も本当に自分達のことを考えてくれているのか、それともただ単に資源確保や安全保障上の自分の利益だけを日本が目的としているのかは、ちゃんと分かると思います。(国際機関での選挙の時などに援助額を増やしても、これは相手に見透かされ効果が薄いのではないでしょうか。) 人のための援助を真剣に考えることが、日本の立場を維持・強固にしていくことにつながるのではないかと思います。 途上国の人々に本当に役に立ち感謝される援助を実施する為には、ただ単に無償・技協・円借款の組み合わせにとどまらない、援助の質の向上が必要では無いでしょうか。その結果として効果が上がって初めて感謝をされるのであって、金額だけが問題ではないと思います。援助関係者と して、金額が減っている今こそ質の向上のための知恵を絞る良い機会と捕らえて工夫をすることを心がけるべきなのかもしれません。 そこで、日本人や日本企業に限定するタイドの援助で本当に他の国に負けない質の高い援助が継続できるのでしょうか。タイドで続けるには優秀な人材が必要です。ODAの世界で大事な役割を果たしているコンサル業界で若い人を育てていく余裕が無いといった話を聞くと、日本のODAの将来に不安を抱きます。人が育てられないのであれば、いっそのことアンタイドにした方が援助の質の向上、コスト削減もでき、日本のためになるかもしれない、というのは自暴自棄気味でしょうか。完全にアンタイドと言わないまでも、ある程度海外のコンサル会社の参入を促し、競争を促すことで日本人も鍛えられるといった形にはできないものかと思います。また、日本人でも、NGO、民間企業、援助機関といった日本の組織の間で行ったり来たり、更に日本の組織と国際機関とを行ったり来たりすることができるような制度は作れないものでしょうか。 「非ODAの活力を高める税制や仕組みの検討も必要」というご意見に賛成します。新しい日本のODAを語るにあたり、確かにODAだけでなく、日本が、日本人が途上国の政府や国民と、どう付き合って行くのかという全体像を考える必要があると思います。投資や貿易を中心とした企業活動(例:日本企業の高品質な製品や日本のアニメ の輸出を通じた「日本」に対する好感、従業員を大切にする経営を行い投資先国で評判の良い日本企業、少数民族出身の師弟に毎年着実に奨学金を出して感謝されている企業等)、開発や人道援助を行うNGOの活動も含み、総合的に考えることが必要でしょう。援助も国際貢献の一環という言い方が良いのかもしれません。民間企業で働く方々やNGOも含めて日本の多くの人たちが途上国とのつながりを持つことがODAを含めた国際貢献に対する理解につながって行くのではないかと思います。 国益に関しては、英国の場合は外交を(国益も)あまり直接意識していなのではと思わせるような援助を行っており(開発の世界に身を置く者としてう らやましい気もしますが)、そのこと自体が英国の存在感を高めるという逆説的な状況を作り出し、これが実は最も国益にかなうものになっているのではないのかという気がしてなりません。もちろん、この裏には知的リーダーシップを果たしうる仕組みと人材があるのでしょう。この点は学ぶべき点が多いのではないかと推察します。 援助もある意味では競争の世界です。それはいかに役に立つ援助をするか、それをいかにアピールするかの競争だと思います。一見逆説的かもしれないですが、そのためには援助協調もひとつの手段です。他の援助国や援助機関の存在は、日本にいると東京でさえも日常的に意識することが無いのではないでしょうか。 |
2007/3/11 当方にて若干、編集(削除)しております。 |
ODAの意味、意義を考える上で、援助の継続性(或いは継続可能性)も大きな要素だと思います。 「実績」に留まらず、援助プロジェクトで見るべき成果を上げるには、とてつもなく時間がかかる場合が多いです。 それは、援助に直接携わる個人にとっても、資金を提供する政府など機関にとっても、大きな負担です。開発援助全体の中で、援助政策の研究調査、企画立案などは、投入する時間を比較的区切りやすい(「手離れが良い」という表現もできます)部分です。援助プロジェクトの実務は、その逆が多いでしょう。また、一旦手がけたプロジェクトを予算や個人的な都合で大した成果を見ることなく打ち切る時、ひどく後味が悪いものです。 そこで、どの国の、どういうプロジェクトに、どうかかわれば、極端な場合10年〜15年と継続できるのか --- 政府、世論、そして援助実務者、夫々が考えるべき一つの重要な要素だと思います。それによって、ODAの意味、意義が制約されることもあることでしょう。 |
2007/3/22 当方にて若干、編集(削除)しております。 |
今回の問題提起(@国際協力、貧困/
開発問題、ODAをどのように整理するか、A国際協力の担い手をどのように育てるか)をめぐる議論を拝見して、『「新しい日本のODA」の原点は、ODAの枠を超えた思考をすること』、と改めて感じました。 ODAは国際協力の一部にすぎず、ODAとそれ以外のチャネルによる協力、日本との関係をしっかり考えるべし、というご意見が多かったと思います。同時に、その際に、ODAのもつ意味(何のためのODAか)については、4分類(特に2〜4)の中のひとつに特化する必要はなく、複数を求めてよいという点でもコンセンサスが得られたのではないでしょうか。ただし、ご指摘があったように、単に外交上や安全保障等の観点から日本の立場を維持・強固にするためだけではなく、実際に途上国の国民のために役立つ開発成果・実績をあげてこそ、相手国と持続する関係構築ができるわけで、2〜4は相互関連している、という点にも留意すべきではないかと思いました。 人材育成、担い手の育成についても貴重なご意見を頂きました。人材プールが可能となるような仕組みづくりの必要性に加え、開発分野で企業のCSRへの取り組みが広がっていくこと(また、そのために必要な支援をすること)自体、国際協力に関る人材が活躍できる機会を増やし、またNGO、実施機関、自治体等との人的交流の拡大につながるのではないか、という視点も喚起頂いたと思っています。 |
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