ODA Salon

National Graduate Institute for Policy Studies
 (GRIPS)

「新しい日本のODA」を語る会


 

Last updated 25 May 2007

 コメント紹介コーナー


第8回ODAサロン:幹事による第8回会合の概要
(2007/4/27付け「devforum」にて紹介)

【幹事からの冒頭発言のポイント】

  • 2007年9月をめどにODAマニフェスト案を作成。そのために、毎回、個別イシューを掘り下げて議論していく。 10月以降はフォローアップ期として、各種ステークホールダーへの働きかけ、マニフェスト案へのコメント聴取等を行う。

  • 「ODAマニフェストの作成に向けて(事務局たたき台)」、及び「日本のODAについての現状認識・課題マッピング」 (今までの議論やdevforumのMLを通じて寄せられたコメント等にもとづく)に沿って、論点を紹介。さらに、これらのうち、「理念と戦 略性を明確にする」 「世界の援助潮流、国際環境に応える」を中心に、事務局の考えを紹介。具体的には以下のとおり。

    1. ODAの戦略性: 「国家戦略」の一部であると同時に、「援助戦略」としては途上国開発への貢献そのものがODAの目的という二重性あり。なお、「国家戦略」においては、「国民益」と「国際益」の双方を追求してよい(「ODA二分論」)。国内向けの発信として、「共生」「生存」「繁栄」をキーワードとしたメッセージを提案。

    2. 対外発信メッセージ:「援助戦略」についての対外発信メッセージとして、日本 らしい援助を念頭に、「卒業のための支援―Aid for Graduation」を提案。これは@成長支援、及びA成長が生みだす社会的問題(格差、環境等)を解消するための補完的支援の両方を意味する。日本らしい援助の要素として、@日本自身と東アジアの開発・援助経験、A比較優位―官民連携・技術力・ツールの多様性・自助努力や主体性尊重・現場主義等のアプローチ、等。

【意見交換・質疑応答】(主に参加者からのコメント、提案)

議論のポイント

  • ODAの戦略性や対外発信メッセージについては、事務局の論点整理や提案の方向性について概ね理解を得られた。

  • ただし、幾つかの点で追加・修正、さらなる検討を要することを確認。具体的には:

    1. 「国家戦略」との関係で、途上国の開発への貢献がODAの前提ということをより明確にだす。

    2. 日本の「援助戦略」において、環境、省エネルギー等は重要な柱となる。

    3. 国際援助環境をリードする(潮流に受身に応えるのではなく)発想で、マルチ機 関を積極的に活用し影響を与えていく方策を検討する必要性。

    4. 二枚舌戦略、例えば対外的発信と国内的発信を使い分ける等の工夫が必要。

    5. 「国民益」や環境など国民に分りやすい課題に関し、ODA予算配分や財源手当てのあり方との関係を検討、提案していく可能性。

(以下、主な論点)

 ODAの戦略性

  • ODAに期待される「国家戦略」への貢献は、途上国の開発ニーズに応えることで実現されることが大前提(複数意見)。

  • 途上国の開発・卒業への貢献、「国際益」というグローバルな公共財提供は、日本の品格を示すことにもなる。これが中国との違い。

  • 「国民益」は、相互依存の世界との関係で整理する方が自然(事務局の補足説明メ モへのコメント)。

  • 「国民益」、「国際益」の中で何を重点化すべきかが難しい。追求すべき目標の「選択と集中」が課題。

  • 環境を重視すべき(複数意見)。

  • 途上国のニーズに応えることが基本原則だが、環境・省エネルギー等、途上国が高いプライオリティをつけにくいが、 日本が自らの経験をふまえて、取組むべきと考える課題に対しては別パッケージで支援するといった発想もあってよい。国民にも分りやすい。

  • バイとマルチの方針を、もっと大胆にふみこむべき。国際機関は活用するものであり、「日本は国際援助潮流をリードする」志で取り組むべき。国際的な場を使って日本らしい価値を普遍的にアピールしていく発想が必要。

  • G8/NGOフォーラムが結成され、9月末までに市民マニフェストを作成するなど、いよいよG8に向けてのアドボカシー・プロセスが始まる。 10月以降は大規模なキャンペーンを展開する予定だが、NGOによる市民マニフェストと、本会合の(専門家・実務者グループによる)ODAマニフェストが相互補完的なものになれば大きなインパク トを生み出せると期待。

  • 「援助戦略」の中に政策群という視点も盛り込んでほしい(例えば、東南アジアの経済ネットワーク、アジア・アフリカ連携)。

発信メッセージを考える留意点

  • 緒方理事長とJOCVの知名度がJICAそのものより格段に高い理由は、世界や国民の共感を生んでいるから。例えば、@緒方理事長は、難民救済を含めて国際社会が共有する課題解決(普遍的価値)のために奔走しており、AJOCVは「汗と涙」といった志に訴える。

  • ODAについて、国民が分かる議論をしていくべき。途上国のニーズを考える必要はあるが、国内では「国家戦略」を考えようという流れがある。例えば、外務省・ JICA・JBICは国際協力というが、司令塔は海外経済協力と称している(より国益を髣髴)。

  • 国民のODA、国際協力に対する関心・参加を促すメッセージが必要。ODAは「国民益」に帰ってくるという説明が必要。

  • マーケティング戦略という発想が必要。分かりやすさ、世界に売れる、メリットがある、(崇高な目的よりも)身近に感じられる概念、等が鍵。

  • 自民党で作成中のODAマニフェストは改革提言というよりは、「何のためのODAか」 に焦点をあてている。軍事的貢献に限界がある日本が果たす役割、技術力、民間の活力、ソフトパワーなどがキーワード。

  • 国内的発信と対外発信とを使い分けるなど、「二枚舌戦略」が必要ではないか。

対外発信メッセージとしての「卒業のための支援」

  • 事務局案の「卒業のための支援」に賛同(複数意見)。既に卒業国がある今、途上国もイメージをもって、希望をもてる表現。自助努力支援を今日的にいいかえたもので国際的にもアピール可能。「援助をやめるために援助する」との考えは、国際社会で未だ常識になっていない。

  • 「卒業のための支援」は、上からの押しつけ的なイメージを与えないか。地球規模問題、環境問題へのモラルリーダーシップ、人間としてのあり方を彷彿させるフレーズも検討すべき。

  • 対外発信メッセージは、日本の中の普遍性をひきだす発想で。

  • 平和、人権、民主主義、環境への取り組みはアジアで強化する余地がある。こう いった普遍的価値をメッセージとしてだすことも重要。

日本らしい援助

  • ボトムアップで現場に根ざしたアプローチ、地道に長くつきあう、相手の話をよく 聞く。

  • 内外ともに「日本らしさ」を探り、共感をうむ努力をすることは重要(複数意見)。

  • 他方、「日本らしさ」のハンドリングには注意すべき点もある。ややもすると、内向きで抑制的(←国際コミュニティとの対話を回避、日本型の押しつけ)になる危険性あり。

  • 比較優位は動態的に考えるべき。例えば、インフラ分野において、PPPや制度面を含めて日本が比較優位があるかは疑問。インフラ技術も、今や多くの国に普及している。

  • 環境への取組みは日本独自のモラルのあらわれ(低負荷の産業発展)。モラルリー ダーシップは「日本らしさ」ではないか。

【雑感】

私達としては、今後、広くご意見をいただきながら、マニフェスト案を修正・追加し ていきたいと考えています。今回の論点となった事項を中心に、皆様からも具体的な提案を歓迎いたします。

最後になりますが、「戦略的な援助をどう実現するか」という視点から、北野充氏 (在米日本大使館公使/前在ベトナム日本大使館公使)がベトナムでのご経験に基づいて執筆された提言書を、今般、GRIPS開発フォーラムから刊行させて頂きました。 「新しい日本のODA」を語る会の論点と重なるところも多く、有益な示唆が散りばめ られているところ、ご紹介させて頂く次第です。

北野充著 『戦略的な援助をどう実現するか〜ベトナムにおける日本の取り組み
(pdfファイル、739KB)



コメント
会合出席者からのコメント

2007/4/26
21:46

 

 

 

課題 「国際的な援助潮流をリードする」

問題

  • 国際コミュニティの援助思想・潮流を「所与」(外部要因)と見なしがちであり、日本が積極的に影響を与えようとしていない(まだ残る小国意識)

  • マルチ国際機関の方針・戦略への関与が非常に小さい

  • 国際コミュニティを通じて有効に(情報)発信すべき多数の機会を逸している

基本的考え方(追加的提案)

  • 日本が国際社会あるいは途上国支援において実現したい普遍的価値(=その集積が「日本らしさ」)の普及をマルチ国際機関を通じて展開する、と認識する

  • 国際援助コミュニティと積極的に対話を行い、必要な局面では議論と「挑戦」を恐れず、世界有数のODA貢献国としてのあるべきプレゼンスを獲得する

  • 国際コミュニティ・国際機関への対処を、オールジャパンとして行う(例:国連グループ=外務省、開発金融機関=財務省 という所掌割を超えた横断的政策立案・調整))

マニフェストのイメージ(追加的提案)

  • 国際コミュニティ・国際機関への影響力を増大するオールジャパンの戦略・方策立案

  • 国民にわかりやすい結果目標の設定(例:民間人の国際機関登用、国際機関日本人職員の大幅増加、日本のODAを世界に知らしめる国際的イベント・キャンペーン展開など)

*** 補足コメント

  • 「日本らしさ」議論について: 日本の援助が持つ「比較優位」の明確化と活用は、戦略・戦術の各次元において十分有効であり、必要だと思います。しかし、それが「ODA哲学」次元において、「日本らしい」援助をのみ行うべきである、という議論になると、それは違うのではないかと思います。うえに一言書きましたが、日本が世界に広めたい価値実現のための行動の集積が「日本らしさ」となるとしかいいようがなく(それには、同じような目的であっても支援プロセスが自然と「日本らしく」なっていることも[あるいはそのほうがむしろ]多いでしょう)、「日本らしさ」の定義設定から「すべきこと」に迫ろうとすると、玉葱の皮むきに等しくなる可能性が高い。これはレトリックの問題ではなく、考え方のうえでの重要なポイントと思います。

  • 「国際援助潮流」の文脈でも申し上げたいのは、そうした根本の考え方において、バイ援助であろうとマルチ援助であろうと、同じ場所から出発すべきである、という点です。これは一見自明なことのようで、実はそう発想されていないことが非常に多いのではないでしょうか。

  • 例としては、国際開発金融機関などは国民にあまり知られていないので、国連グループを引用したほうがよいかもしれません。なぜ「国連中心主義」(もともと小沢一郎などが言い出した)などどいう妙な語彙があるかと考えてみれば、もし「日本がODAをも通じてこういう風に世界を変えていきたい、貢献したい(=日本が考える国際益)」から出発して、国連グループは「そのために」使う、とまで言わなくても、それとのかかわりにおいて国連グループとの付き合い方を考える、必要とあればむしろ国連グループに考え方の変更を求める、という発想が十分徹底していないからではないか。

  • 「日本らしさ」議論のハンドリングのもうひとつの注意ポイントは(会合でも発言がありましたが)、下手をすれば、「日本らしい」援助は、別に国際コミュニティ(ほかのドナーや国際機関)にわかってもらえなくてもシコシコやっていればそれでよい(「現場が喜べばよいのだ」)、いっぽう、「国際援助潮流」は別の角度から「対応を考える」という、間違った二元論の危険です。実は、現実に展開されているODA事業には、こうした発想と無縁とは言いがたい例が多くあると観察しています。もちろん、現場(相手国やコミュニティ)に真に役立つことを地道に持続するということはいちばん立派で大切なことながら、その事業や効果を、あまりにも「国際コミュニティ」と対話したり発信していないことが多い・・・がゆえに、よいことをしているのに世界に知られない、あるいはその方法を国際的に「戦わせて」改善もして広めてもいく機会も逸している、ということが非常に多いように思います。このとき、単に「発信せよ」とか言うだけでは、現場は変わらないのであって、やっていることを、直接実施する(=バイ援助)だけでなく、当然のこととしてより広く知らしめようとする普段の行動が必要ですね(=マルチ援助機関や国際コミュニティとのつきあいで知られていく)。こうした現場の行動をいかに変えていくか、というのは最終的に必要だと思います。

***最後に
うえの「基本的考え方」や「マニフェストイメージ」の項は、ドラフトの多くについて私は賛成しているうえでの、若干の追加提案です。「卒業のための支援」は、コンセプトとしては「国の自立支援」などとして、経済社会・人権の面で途上国がいかに国の「尊厳」を強固にできるかを支援する、というような論陣の展開があればよいと思います。また、「国際協力戦略のシンクタンク」も事項として賛成で、これは「外交基本戦略としてのODA」次元と、現実の援助実施・展開次元の間を有機的につなぎ、横断的に政策立案できる機能が全く欠けているなか、非常に必要な視角だと考えます。

2007/4/29
1:00

当方にて若干、編集(削除)しております。

日本らしさとは・・・

ODAサロンで配布された資料を拝見し、理念と戦略から、ODA予算、アフリカ支援に至るまで、 ODAを巡る主要な課題と、各々の問題の所在と考え方、そして処方箋の案まで整理した全体像が提示され、大変勉強になりました。

特に、今回の「日本らしい援助」の是非と内容についての議論には、本当に考えさせられました。確かに、「日本らしさ」を強調しすぎると、国際機関や他国から「それじゃあ勝手にやれば」とそっぽを向かれる可能性もあります。また、自らの手を縛ったり、途上国のニーズや優先順位を棚に上げて日本の都合を押しつけているとの印象を与えるおそれもあります。しかし、それは「日本らしさ」の定義次第ではないかと思います。過去の日本の歴史や伝統のみにこだわるのではなく、あるべき未来の世界の姿を日本が自ら構想し、その実現に向けて努力すれば、それが「日本らしさ」とも言えるように思います。

ある意味、「日本がやること、やりたいことが日本らしい」のかもしれません。「日本らしさ」とは、「途上国のニーズ」や「世界のベストプラクティス」と背反するものではなく、それらと「日本の内にある知恵」の全てを見据えて考え抜き、切磋琢磨し続ける中での、「日本が正しいと考える道」ということではないでしょうか。

日本だけで取り組むのではなく、日本の中の普遍性を世界のパートナーシップの中に広めること、日本が自らの行動を起点に世界の潮流をリードしようという姿勢が大事だと思います。そのような観点から、今回提示された「卒業のための支援」や、環境・省エネ重視といった具体的なアプローチを深めていくことが、正に求められていると感じております。

このような「一般論」を地に足のついたものとするためには、個別の国・地域の現場における、政治状況の深い理解や、分野毎の政府や他のドナーとのパートナーシップが不可欠だと思います。以前、 途上国に勤務した際に実感しましたが、日本だけではリソースは限られており、大ドナーである世銀やADBなどの資金や分析能力、そしてプレゼンスを活用すれば、日本として望ましいと考える支援が一層効果的に実現できる場合も多々あります。そのような観点から、途上国での現地機能の強化、援助協調への能動的関与は、既に取組が進められている通り、まさに優先課題であると考えます。このためには、要員も資金も必要です。

このような論点の整理と共有、そして議論の深化を通じて、日本や世界各地にいる開発関係者のベクトルの向きが揃い、 効果的な開発援助につながることを期待しております。

2007/5/4
17:14

当方にて若干、編集(削除)しております。

第8回の報告を拝読しました。ODA二分論、二枚舌戦略など、私自身は納得させられるところが多くありました。ほとんど賛成で、気になった点が一つだけありましたので、その一点について 述べさせていただきます。

「卒業のための支援―Aid for Graduation」について

当然のことながらキーワードは卒業です。察しますに、卒業は、援助する日本人側にすれば「いつまでも援助するわけではなく、早く卒業させたいのだ」ということで日本人に安心感を与える一方で、途上国側には「卒業まで面倒を見ますから」という責任感を示す、というご趣旨であったかと推測します。その思いは十分理解できます。

気になりましたのは、途上国側が「日本は早く卒業させたがっているのか」、とか「卒業させて手を切るつもりか」というふうに解釈しないか、ということです。そんな意図でないことは、私自身は分かっているつもりですが、そのように途上国側に思われないためにはどうしたらいいのか、と考えさせられました。

当然のことながら問題になるのは「卒業」という言葉で何を意味しているのか、ということです。ある国が卒業する、とはおそらく、援助がいらなくなることだけではないと思います。成熟して、少なくとも何かの分野で世界や国際社会をリードしてくれる、日本と対等の助け合いの国になってくれる、ということか、と思います。しかしそれが「卒業:graduation」という語で伝わるか、という問題があります。英語の卒業式には「始まり」を意味するcommencementもあると聞きます。本来の卒業の意図は、unilateralな援助から、真の意味でのbilateralな「助け合い」のフェーズに移ることかと思います。しかし、それをうまく表現できる言葉が自分では見つかりませんので、皆様にお知恵を拝借したいと存じます。
 

2007/5/4
18:20

当方にて若干、編集(削除)しております。

卒業に関して

途上国が晴れて「卒業」し中所得国になったとしても、一夜にして縁が切れるのではなく、(ODA実施機関が関与するかどうかは別として)我々の関与は継続するのだろうと思います。

一つには、中所得国は(世界規模の経済危機など)外的ショックに対し脆弱な点です。世銀資料によりますと、1980年以降、38ヶ国が中所得国から低所得国へ転落しています。そのうち中所得国に復帰できたのは10ヶ国程度に過ぎません。投資環境や市場での資金調達脳得力は中所得国間でバラツキがあり、インフラ投資に向ける資金も恒常的に不足しています。またガバナンスや政治システムも盤石とはいえません。

第二に、世界全体の貧困層の8割が中所得国に存在します。第三に、気候変動、感染症など地球規模の課題を克服するうえで中所得国が鍵を握っています。

これらについて、「卒業したんだから君たちだけで解決しろ」というのは非現実的で、先進国の積極的な関与が不可欠であろうと思います。卒業に関して明確な基準と手続きが規定されているマルチの援助機関ですら、卒業後も様々な形態(例えば課金ベースでの技術協力)を通じて関係を維持し、また上記の経済ショックなどで卒業国がひとたび苦境に陥れば援助を再開します。

また二国間ドナーには明確な卒業基準がないこと、特に米国は安全保障や民主化といった政治的な動機に基づく援助や議会主導のプログラムは、(卒業の主要な判断指標である)所得レベルとは無関係に実施されています。(英国の場合はそもそも低所得国・アフリカが主力で、インドのような政治的に重要な国を除けば、卒業問題に頭を悩ますことはさほどないのでしょうが。)

いずれの場合でも、卒業プロセスには数年の移行期間を設け、相手国と十分協議を重ねることが前提となっています。

ODAなど公的援助という外国の介入は、不可避的に政治性を帯びます。特に二国間援助の場合は、卒業判断は所得レベル以外にも外交関係、本邦民間企業の活動など様々な要因が考慮されます。ODAの範囲内で考えると窮屈になってしまいますが、卒業とその後の関わりはより広い視点で議論したほうが有効な気が致します。

2007/5/5
1:58

当方にて若干、編集(削除)しております。

「卒業のための支援−Aid for Graduation」について

途上国の人たちの中には、「卒業」に不安を感じる人たちや、更には卒業にメリットどころかデメリットを感じるような「現状維持・既得権益擁護派」もどこかにいることでしょう。バングラデシュの場合にも、政府の指導層は、援助依存でなく自立の軌道に乗っていることを再三強調していましたが、人によっては、「バングラデシュの最大の商品は『貧困』であり、それがなくなると世界からの関心が薄れ、善意が離れてしまう」と心配する向きもありました。

これに対しては、先進国や援助機関が引き続き積極的に関与していく姿勢を示すことが有効ではないかと思います。

例えば、アジアの中で、卒業した国や、卒業間近な国から、卒業時には、貿易・投資等を通じて、これこれの新たな便益(メリット)が得られるといった具体的な事例やイメージを提示してもらうことも 一案かもしれません。このような貢献は、日本外交の新たな柱として打ち出された 「自由と繁栄の弧」にも沿うものではないかと思い す。

外交フォーラム4月号の特集での座談会の中で、日本を40代半ばの壮年に喩えつつ、成熟した大人の国として、国際社会を構想する経験と国力がある日本が、大国としての責任を果たすために何をすれば良いのか、回答する一つの試みが 「自由と繁栄の弧」である、との言及がありました。「卒業」から「自立・繁栄」への道筋を示すことは、日本やアジアの経験を最大限に生かせる貢献の一つではないかと感じております。

2007/5/5
4:31

当方にて若干、編集(削除)しております。

  1. 協力、engagementの連続性
    議論のキーワードである「卒業」が何を意味しているのか、それはそれで一つの議論ではあると思いますが、一般的に考えると、国の成長は、経済的な意味であれ、社会的な意味であれ、複数の次元ですがそれぞれの次元で連続性(continuum)の中にあるわけです。本来ならば、国と国の関係、あるいは経済と経済の関係は、その連続性を活かして、より組み合わせごとに差異化された関係というのが理想なのでしょう。しかし公的な 開発援助は結局制度なので、ポリシー、ガイドラインという名の下、非連続的な介入にならざるを得なく、どうしても「在学生」と「卒業生」の二分化論になったり、eligibilityの議論となってしまいます。その中で、数学で勉強する積分のロジックのように、如何に国別の対応をも強化することにより、支援戦略をカスタマイズし、制度にフレキシビリティーを持たせることが大切だと思います。その意味で、「卒業」が何を意味しているのかにもよりますが、決して援助という形でないにしろ、また決して一方的な支援ということでないにしろ、支援軌道の延長線上、例えば通商関係、広い意味での経済協力を通じて、変化しながらも継続的なengagementを図ることは重要でしょう。
     

  2. アフリカの中所得国の存在
    アフリカですと、どうしても低所得国の数が多いため、「Sub-Sahara Africa=LDCs」というイメージをお持ちの方が多いと想像しますが、実際には産油国を含むと13カ国が中所得国で、アフリカ経済の総生産の 半分を占めます。国内の貧困の問題(所得格差の増大)、HIV/AIDSの問題、失業問題といった国内社会問題を抱えています。中所得国から低所得国の成長波及効果も忘れてはなりません。低所得国に大しては経済支援が重要であるのに対し、IDAの対象ではない中所得国に対しては政策advisory service、調査研究といったknowledge productを通じた知的な支援が相対的に重要になっております。
     

  3. インセンティヴの問題
    最後に、「卒業のための支援」の概念ですが、方向性としては大いに賛成です。また、上記1、2の点を組み入れた概念だとも理解しております。他方、その概念をより政策上具体化させる中で、如何にインセンティヴ・メカニズムを利用するかという議論があればと思います。例えば、会社更生であるHIPCの卒業とIDA国からIBRD国への移行(進級?)は、全く異なるインセンティブ・メカニズムがあります。援助を卒業するインセンティヴがない(あるいは援助を受ける側に意識されていない)と、卒業のための援助は、むしろモラルハザードを呼ぶに終わってしまう危険性も否定できないでしょう。「卒業のための支援」という言葉は、日本国内むけのインセンティヴとしては伝わりやすい言葉だと思いますが、概念をしっかり整理せずにイメージだけに終わると、途上国側にインセンティヴの問題が生じます。なので、その概念を深める議論を進められることを期待しております。

2007/5/11
13:01

当方にて若干、編集(削除)しております。

ODAサロン幹事より

「卒業のための支援」と「日本らしい援助」について、皆様のご意見を読んで感じたこと、言葉足らずだったことを補足させて頂きます。

  1. パートナーをめざした「卒業のための支援」
     

    • 何を意味するか、概念:私たちの考えは、成長促進だけを意味するのでなく、成長の過程で生じる貧富の格差、公害・環境等の社会的問題(すなわち貧困に関る部分)も含めた概念として提示しようというものです。一定期間、成長を遂げても社会的ひずみに対処しないと、政権の安定、国民の支持は得られず持続的な開発を遂げられない国は多々あるわけで、援助から卒業するためには、成長促進と(そのプロセスに伴う)社会環境面への取り組みという補完的政策の両者があってこそ、可能となるものと考えます。もし、「卒業のための支援」を対外発信メッセージとして打ち出す場合には、こういった点の認識共有を図るためにも補足説明、また下記のように、 「パートナーをめざした」といった概念をあわせて示す必要はあると思います。

    • 協力、engagementの連続性:協力の連続性は重要で、これこそ日本の東アジアの 経験でもあり、強みとして打ち出せるものと考えます。強調したいのは、卒業の先には、パートナーとしての対等な関係(貿易・投資、経済連携等)がある、ということです。日本の場合は、ODA以外にも様々な経済協力ツールがあり、また投資環境整備への知的支援(ベトナム、インドネシア等)、AOTSやJAIDOによる技術支援(企業と連携)、EPAをめざした官民連携による協力もできます。こういった多様な経済協力を展開できるバイラテラルのドナーはそう多くないと思います。グラント援助を卒業すると、あとは民間企業ベースになってしまうドナーと比べた優位性でもあり、こういった過去の経験を糧にして、日本の援助戦略、そしてそれを体現するキーワードと して打ち出す意味はあるのではないでしょうか。世銀(IDA→IBRD)、ADB(ADF→ OCR)等、マルチのドナーも連続的な支援をしています。

    • 途上国側のインセンティブの問題:授業でアフリカの学生と話して感じるのは、彼らが望んでいるのは、援助依存からの脱却ということ(すなわち、卒業)。東アジアは、卒業してパートナーとなった新興国もあり、これはアフリカを含む他の途上国に希望をあたえ、むしろ前向きなインセンティブになると思います。従って、今まで日本がやってきたことではありますが、上記のような様々な経済協力ツールや知的支援を組み合わせて支援していくよう、実施・知的支援体制をさらに強化する努力を続けていくことが重要と考えます。
       

  2. 「日本らしさ」の定義について
    前出の議論、つまり日本だけが国際機関や他ドナーとは別に、勝手にやるのではなく、「『途上国のニー ズ』や『世界のベストプラクティス』と背反するものではなく、それらと『日本の内にある知恵』の全てを見据えて考え抜き、切磋琢磨し続ける中での、『日本が考える 正しい道』ということ」(引用)だと思います。

    私たちとしては、次回9回会合で、こういった認識をもって、体制面の課題について議論を深めていきたいと考えています。

2007/5/11
19:37

当方にて若干、編集(削除)しております。

「卒業のための援助」につい て

私は良いと思います。途上国側のいつまでも援助に頼るというメンタリティー、援助を既得権益と考える傾向は、はっきり言って大問題です。アフリカからの学生さんたちが援助依存体制から脱却したいと望まれるのも、(「富国強兵」もですがちょっとおいて置いて)「関税自主権」を一日も早く得ようとしていた時期もある日本人には理解できる気持ちだと思います。途上国の人たちが援助を受け続けることで、誇りをもてない状況にある。そういった意味で人間の尊厳にも係わる問題ですし、「自助努力」を促すという日本のスタンスに反します。ですから、ヴィジョンとして、「卒業のため」とするのはとても良いと思います。ただし、あまり厳密に、どうなったら卒業など詳しく既定しないほうが良いと思います。「卒業のため」と言ったことでどう違ってくるのかは、はっきりしないといけません が、これはODAサロン幹事からのご説明でよろしいかと。別の言い方をすると、経済開発と社会開発という車の両輪で進むこと、ついでに言うとガバナンスという車軸を強くすること、こういったことをお手伝いするというのはいかがでしょうか。

ガバナンスをここで敢えて持ち出したのはなぜかと申しますと、これは「自由と繁栄の弧」 で紹介された外交の「新基軸」と呼ばれるものに通じるからです。このなかで市場経済というものと同時に民主主義、法の支配、基本的人権の尊重といった「普遍的価値」が重要(かつ相互補完的である)ということを日本が言う、これを援助等様々な手段で支援するという言行一致が有用かと考えたからです。このような普遍的価値が中国との違い、これらを押し付けないで一緒に悩み努力するのが他の援助国との違いでしょうか。

日本らしい援助について

これは、現場では危険です。とまあ、ちょっとセンセーショナルに言いましたが 、ご指摘があった通り、えてして内向きの「日本らしさ」に間違って理解される恐れが大変に大きいと思います。昔々は日本の援助だから日本の経験の移転ではないといけないと考えられていたようですが、今はそんな了見の狭いことはおっしゃらないかと思いますが、実際のところそうでもないようです。特に専門性が軽んじられている場合に起こりやすいような気がします。ですから、「日本らしさ」は日本の経験(や東アジアの経験)をそのまま持ってくるのではないということを、口をすっぱくして言い続けないと、どうも勘違いする恐れがあります。

そもそも日本自身の経験は、世界からその時代のグッドプラクティスを導入し、それを日本なりに消化したという歴史です。この経験については三つの意味があるのではないかと思います。ひとつは、或る特定の国のモデルにこだわらず、それぞれの分野で「グッドプラクティス」と思われるものを取り入れたこと。(畜産はクラーク先生のアメリカからでしょうか。立憲君主制は、プロシアでしたっけ。植民地は「欧米列強」から導入?すべてが良かったわけではありませんけど。)それから、世界共通の「ベストプラクティス」でなく、日本に合った「グッドプラクティス」だったこと。三点目は、日本型の制度に消化しているところです。今なら、これに負の経験(例:公害)も参考になる。

こういったことを踏まえて、ある方のブログで書かれている意見に賛成します。

... 途上国の現場のニーズも、世界のベストプラクティスも、日本の内にある知恵も、全て見据えた上で、 日本が正しいと思う道。それこそ、世界に訴える普遍性を持つ、日本らしい援助だ。持てる全てのリソースを動員して、これに取り組む。

現場のセクターレベルから見ても、日本の経験だけでは手足を縛られた形になってしまい、本当に相手のニーズに合った効果の上がる支援ができないのではないかと思います。ではその分野で日本に人材がいなければどうするかといえば(アンタイドにしないなら)、それは人材を育てるしかない。やりたい援助ができるように、人を育てる。最初は、マルチの機関にやらせてあるいはマルチも含めた他の機関と一緒にやりながら、日本からも人を出して経験を積み、ゆくゆくは日本が日本人のやり方でできるようにする。こうして、目の前の「比較優位」でなく、優位性を作り出していくというやり方は、実は日本自身の経験なのではないでしょうか。かつて比較優位にこだわっていたら、今日の日本の自動車産業はありませんでした。先人の知恵をここで生かしたいと思います。

さらに、世界のベストプラクティス(グッドプラクティス)の中で、実は言語の問題もあって日本の経験が十分吟味されていないこともあります。その場合、日本にはこんな経験がある、こんなことで成功し、こんなことで痛い目にあった、ということを伝えて行くことが日本の貢献です。発信の大切なところですね。その際、経験そのものより日本の経験はこれこれこんな要因があったからうまくいった、これは他の国の例やあるいは既存の理論で言えばこれにあてはまる、といった風に分析してもらわないと、日本は特別だから経験は移転できない、と言われてしまいます。他の機関からの議論に耐えられるものが必要ですが、これはまず発信し、議論の土俵に乗らないと話になりません。

もう一度言いますと、日本の制度をそのまま移転することを日本の経験と思わないようにということを強調していただきたいと思います。

選択と集中について

「車の両輪と車軸」の話をすでにしたので内容には触れませんが、日本が被援助国すべてに対して一律に選択と集中のテーマを押し付けるのであれば、どうかとおもいます。あくまでもその国の状況に合わせて、対話に基づいてというスタンスが基本ではないでしょうか。(ウイリアム・イースタリー教授のおっしゃるplannersよりsearchersに、という路線に賛成。)

2007/5/13
6:01

当方にて若干、編集(削除)しております。

日本らしい援助について

『途上国のニーズ』や『世界のベストプラクティス』と背反する ものではなく、それらと『日本の内にある知恵』の全てを見据えて 考え抜き、切磋琢磨し続ける中での、『日本が考える正しい道』ということ

この考えに同感です。そして、ご指摘のとおり、日本の経験については狭い了見では失敗します。 私が今までの事業を担当した経験だと、日本側が協力の際に利用したやり方(他国や他機関のpracticeであっても)すべてが日本の経験ぐらいのいいかげんな定義で行うことが、むしろ、よい援助を行う道だと思います。

自分の経験ですが、JICA中部で研修受け入れを担当していたときに、日本福祉大学の大濱裕先生が力説した、日本の経験は途上国に有効だがうまく相手国側での生かし方を考えてつたえなければいけない、という考えが非常に心に残っています。

98年ごろに今のミンダナオ支援のさきがけのひとつであるミンダナ オ保健行政研修受け入れを愛知県のNGOであるアジア保健研修所に委託したときは、ミンダナオ研修員に日本の先進技術を教えるのでなく、「あなたたちの問題はあななたちが考えなさい」ということを考えるヒントとして日本の地域の事例を教えたので、かえって歓迎されたということもありました。また、そのときは、JICAのフィリピン母子保健の日本の専門家の活動を教材に使ったのですが非常に好評でしたが、これもまさに「日本の経験」でしょう。

JICA中国で勤務した時は、日本の経験を途上国の研修員 に伝えるカリキュラムつくりを考えるときに、やはり日本の経験の背後にある日本の社会システムを研修員に理解してもらいつつ、研修員に応用を検討してもらうことをよく考えたものです。 シエラレオネの国際協力セミナーのときは、日本繁栄の源が、よい社会システムであることを上級行政官の方々にわかってもらうのが第一でした。そのなかでinsetという言葉を教育担当行政官に理解してもらったのは広島県の関係者ともどもうれしかったことです。

insetとは現職教員再教育制度の呼び名ですが、この言葉がアフリカで日本が行う中等理数科教育強化計画のキーワードとなっています。途上国でも応用できるシステムをどう形成するか?途上国のひとたちがそれを考えるヒントを提供するとき、日本国内の経験だけでなく、日本が途上国にて実施した協力経験を利用、ときにいい事例なら外国援助機関の経験も事例としてとりいれればよいのです。途上国のよいシステムづくりに寄与するために日本が選択し示したこと、それらは 全て広い意味で日本の経験でしょう。

ニジェールのJICAプロジェクトである「みんなの学校」が世銀の支援でもって拡充されるというプレスリリースが出ましたが、これも日本の経験が国際社会に認められたといっていいでしょう。

そういった意味ではinsetや中等理数科教育強化計画(SMASSE) などの用語もグローバルスタンダードになる日は近いです。

よく、日本はマイクロファイナンスの事例が国内にないので、その協力ができないという話を聞きますが、これも考えを変えれば、日本のNGOが海外でも行ったマイクロファイナンス事業や協力隊員が現地で経験して活動したマイクロファイナンス事業や専門家やコンサルタントが他国の事例を学んで身につけたマイクロファイナンスの実力、それらもすべて日本の経験です。ですから、日本は経験をもっていて、協力もできる分野だと思います。

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