13. あの約束から10年をこえて ときどき、「あれ、自分は何でこんなところにいるんだっけ?」と思うことがある。大学時代の友人には、「軟式テニスばっかりしていて、真っ黒で、いつも授業にはラケットを背負ってきて、寝ている記憶しかないけどなぁ。なんでお前みたいな奴がずっと海外に出て、しかも国連なんかで働いているんだ?」とも言われる。とても正確な感想だと思う。自分だってよくわからない。 人にはいろいろな岐路があると思うが、私の岐路の一つは1996年春に行った旧ユーゴスラビアにあった。大学最後の試験も終わり、卒業旅行のシーズン、私はデイトン和平合意直後の旧ユーゴスラビア、クロアチアのスプリットにあるボスニア難民キャンプへ旅立った。 こういうことを言うと、「すごいねー、ボランティアで人に尽くすためにいくなんて、偉いね。」といわれることが多いが、正直に言えば、別に慈善事業が目的で行ったわけではない。1994-95年のイギリス留学中から国際政治学に興味を持ち、各地の内戦などについて勉強していたのだが、所詮は机の上の出来事。バーチャルな世界にどうしても納得することができずに、世界で何が起きているのか自分の目で確かめてみたい、ただそれだけであった。けっして善意で行動したわけではない。もし事故でもおこしていれば、「馬鹿で無謀な奴」と世間でたたかれていたのだろう。 チャンスというのは、それを探している人にしか見えないものだとつくづく思う。旧ユーゴで働いてみたいと考えていたところ、クロアチアのNGOの代表が来日しているという新聞記事が目に留まり、そこに書いてあった団体の連絡先に電話をしたら、たまたま同じ大学の同じ学部の卒業生が代表をしていて、あとは全てとんとん拍子で派遣が決まってしまった。 私が派遣された難民キャンプは公園に大量のキャンピングカーが設置されており、内戦から逃れてきたボスニア・ヘルツェゴビナからの多くの離散家族がそこに住んでいた。覚えている限り、両親と子供がまともにそろっている家庭はない。かならずその内の誰かが欠けていた。 私の仕事は、他の3名の日本人大学生とチームを組み、現地のNGOを協力して難民キャンプでの活動を行うことであった。もちろん素人学生4名であるから、たいしたことはできない。それでも工夫を凝らして、キャンプ内の幼稚園での折り紙や遊戯といった授業、小学生と中学生が帰ってきた午後にはサッカー、バスケなどスポーツの企画、大人達に時間ができる夕方には語学クラスや編み物、そして他の難民キャンプとの合同イベントなど、朝から晩まで活動していた。休み時間にも、日本人が珍しい子供達がひっきりなしに私たちのキャンピングカーを覗きにきてはいたずらをし、そのたびにプロレスごっこがはじまり、休む暇も無く、結構日々くたくたであった。
そんな生活の中、内戦の傷跡を知る機会も増えていく。嘘ばかりつく子供。感情が不安定な子供。半ば冗談とはいえ挑むようにナイフを向ける少年。私の友人のウォークマンを「ちょっと貸して」といったまま持って行って返さない中学生くらいの男の子。さんざん文句を言って無理やり取り返したあとの、真っ暗な闇のような彼の目。彼は、家族全員を殺されて1人だった。だが、それが人のものを勝手に取って良い言い訳になるのだろうか? 私にいつも悪ふざけをしようとする高校生くらいの長身の男。構って欲しいのは解るが、ついに椅子に画鋲をおいた彼の横面を思わず殴った私に向けられた、憎悪に燃える目。周りの人が必死でとめなければ本当に殴り殺されていたのではないだろうか(彼は空手の黒帯だった)。彼も家族が1人もいなかった。だが、それが度を越した悪ふざけをする言い訳になるのだろうか??しかし、普通の状況で育った私にそれを諌める資格があるのだろうか??? そんな問いかけに、答えなど出るはずがない。紙芝居を頼まれて他の町に行く途中、車から見た破壊尽くされた街。爆弾で吹き飛んだ屋根。壁の銃痕。地雷地帯・・・。現実を見るために行ったはずの私の目には、すべてが非現実に見えた。
だが、全てが闇につつまれることはない。多くの子供達は無邪気で明るく、いつも私たちを楽しませた。中でも、私をいつも「Minister―大臣」と呼んでニコニコしながら近づいてくる、ビラルという名前の中学生くらいの男の子がいた。まるで女性のような顔立ちだが、体はそこそこ大きく、とても頭の回転が速く、優しく、絵の上手な子供であった。子供らの悪ふざけに私が手を焼くと、いつも手を貸してくれた印象がある。 なぜ「Minister」と呼ばれていたかというと、私は初日の皆への挨拶で、「俺は10年後には日本の首相になる。」と言い放ったからである。若気の至りっていうやつだろうか、当時は大言壮語して人を笑わせるのが好きだったのである。その日から、私のあだ名は「(Prime) Minister」もしくは「アカシ(当時の国連特別代表は明石康氏であった)」となった。 ビラルも父親がいない。母との二人暮らしである。しかし、いつも優しい光を放っていた。いったい何がそうさせるのか、当時も今もわからない。しかし、なぜか彼と一緒にいると常にほっとした。しかもビラルの母親には、よくご飯まで食べさせてもらっていたのだから、全くどっちが難民かわかったものではない(笑)。 キャンプで過ごした2ヶ月は本当にあっという間であった。寝返りすらできない狭いキャンピングカーでの生活も、寒いシャワーも、胃が小さくなる量の食事も、ひっきりなしに集まる子供たちにも、人は順応する動物である。そして、とうとう帰る日の直前の挨拶で、私はまたも皆の前でこう言い放った。 「俺は10年後にはアカシより偉くなるぞ。そして帰ってくるから、皆で国を立て直そうじゃないか。」 まったく今考えると赤面しきりのセリフである。だいたい10年後ではもう遅いのである。さすがにもう冗談でもこんなことは言えない。子供達も、別に本気で信じたわけはないだろう。 しかし、今でも忘れない。同じ場所ではなくても、同じ人達に対してではなくても、あの時、あの場で言った言葉を、いつか実現できるその時まで。首相でなくても、国連の代表ではなくても、例え全く別の形でも、いつか彼らとの約束を守りたい。自分の非力さを思い知り、今度同じ場所に立つ時は、もっと確固たる何かを身につけていようと心に誓った。今自分をここに立たせているのは、きっとただそれだけなのだと思う。 もうあれから10年以上である。キャンプの子供達の多くは、もう立派な大人か青年だろう。それなのに、多くの人を幸せにするどころか、身近な人すら幸せにできない自分がいる。現実はそんなものだが、あの約束はいつまでも心に残る。ビラルはその後、難民認定を受け、アメリカへ渡った。高校に入り、きっとその後大学に入っただろう。渡米後も何年間かは、筆不精の私へ忍耐強く手紙を送ってくれた。 その出だしはいつも、「Dear Minister」だった。 (2007年4月) <追記―そういえば・・・> このようなことを書いても、さまざまな分岐点で感じたことは普段の生活の中ではおそらく99%忘れているような気がする。もちろん現実に妥協しなければ生きられないのだけど・・。 最近こちらで若くて、そしてしっかりした方々と接して、その希望や悩みを聞いていると、「ああ、そういえば」と思わせられることも多い。そんな中、もともと自分はどう考えていたんだっけ、と思って昔のレポートを発掘。恥ずかしい部分は一杯あるのでどうしようかと思いつつ、それでもなんとなく掲載してみます。リンク そういえば、1997年の今頃は、サラリーマン兼選挙監視員というあり得ない肩書きで、ボスニア・ヘルツェゴビナに渡ったかあたりか・・・。有給休暇マイナスになって、クビになるかと思ったのに、ああそういえば、「まあ、今しかできないことだろうから、行ってこいや」と送り出してくれたスゴイ上司がいたなぁ。下手すると自分の責任問題になったのかもしれないのに、きっと批判もされただろうに。私もいつかあんな風になれるだろうか・・・。 (2008年9月)
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