GRIPS開発フォーラム

アフリカ研究書
ななめ読み


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日付: 2005/10/18
ナンバー:
レビュアー: 山田肖子
読んだ本:
  • 藤田みどり、2005年『アフリカ「発見」−日本におけるアフリカ像の変遷』岩波書店

  • 岡倉登志、北川勝彦、1993年『日本−アフリカ交流史:明治期から第二次世界大戦期まで』同文館

  • 青木澄夫、2000年『日本人のアフリカ「発見」』山川出版社

感想文:

想像と拡張の対象としてのアフリカ:日本-アフリカ交流史は現代に何を語るか

「我々は他人のフィルターを通さずに、自らの目でアフリカを見、接することが出来ているか。」この3冊の本を読んで、まず自問するのはこの点である。 世界のどの地域に関わるにしろ、何らかの先入観や期待感を持たずに入ることが困難なのは、いつの時代も同じである。 しかし、アフリカについては特に、歴史上、日本人が媒介なしにその地域や文化、人々に触れることは稀であった。 古くはキリスト教布教師が連れてきた黒人に織田信長が驚嘆し、鎖国時代には出島に黒人水夫が出入りし、その後は、 ヨーロッパから来る小説、紀行文、ニュース、映画を見て多くの日本人はアフリカのイメージを形成してきた。 現在に至っても、アフリカの国々や人々に直接関わっている日本人は、全体からすればごく少数である。 そういう情報チャンネルが限られた状況は、アフリカのイメージの固定化、単純化につながりやすい。 我々は、ヨーロッパ人などの他者が作り上げた「アフリカ大陸」や「アフリカ人」のイメージ、 そしてそれへの関わり方を、無意識にそのまま取り入れてしまっていないだろうか。

現在、アフリカへの援助やビジネスに関わる人々が欲しい情報のかなり下位にあるのが「歴史」であろう。歴史なぞ知らなくても仕事は出来るし、むしろ、常に動いている実務に即効性がある情報こそが重要だと思われるのは当然である。今や日本はアフリカへのODA倍増を宣言し、コミットした資金をどのように使うか、緊急かつ手探りでアフリカ支援の方針決定をしようというさなかであれば尚更である。それでも、敢えてこの「読書感想文」を歴史分析の書から始めるのは、深く関わろうとするときだからこそ、我々自身の目でアフリカを見、その分析に基づいた関係性の構築が求められると思うからである。自分が渦中にいるときは見えにくい事柄がある。しかし、時間的に離れた過去を見ることによって、我々が今も繰り返しているかもしれない認識の罠を、相対的かつ客観的に分析することができるのではないだろうか。

「欧米のようなアフリカ支配の歴史がない、アジアの小国である日本がアフリカの政治、経済、社会に関与する」というかたちは、戦後に日本が経済力を付けた後始まったものだという一般の認識があるとすれば、それは誤りである。ここで紹介する3冊で共通して示されているのは、日本人は明治以来、主にヨーロッパ経由の情報をもとに、二つの異なる視点からアフリカを推測しようとしてきたということである注1。一つは、未開で野蛮な、哀れみや支配の対象としてのアフリカであり、もう一つは、横暴な白人の差別に抵抗する有色人種の同士としてのアフリカである。

青木の報告によれば、日本人のからゆきさんや旅芸人などがアフリカに住むようになったのは1880年代頃で、それ以来、写真家やコックなどの小商いをする個人は東・南部アフリカに散在した。しかし、これらの人々の存在は日本では殆ど知られておらず、日本にアフリカの情報を伝えるのは、ヨーロッパからのニュースや文学と、ヨーロッパへ行く途上に船で寄航した学者、文人、政治家などがアフリカについて書いた文章に限られていた。これらアフリカについて日本人が残した文章も、多くはヨーロッパ人が形成した「暗黒大陸アフリカ」のイメージをそのまま当てはめた没個性の「土人の国」としてのアフリカを再現したものが多かった。

そんななか、日本人のアフリカ観、途上国観を大きく変化させたのが日清(1894-5)・日露(1904-5)戦争での勝利である。西欧に不平等条約を押し付けられ、白人のヘゲモニーの中で孤軍奮闘していたアジアの小国が支配される側から支配する側に回ったという、驕りに近い自負が生まれたのがこの時期である。折から南アフリカの白人移住者(ボーア人)とイギリス軍の間で勃発したボーア戦争(1899)に日本人は多大な関心を示したが、帝国陸軍を中心に、政府が興味を示したのは、英帝国の最新の武器と戦術が植民地平定・拡大にいかに使われるかという点であった。帝国主義に対抗する自由闘争として、ボーア人に肩入れする日本人(共産主義者や無政府主義者など)も少なからずいたが、戦争が起きた地にもともといた黒人に対する視点は欠落していた。日本は、イギリスがエジプトで行った綿花栽培やフランスのマダガスカル統治の手法を満州や台湾経営の参考にしたと言われるが、その際、見ていたのは支配者の統治、殖産の手法であり、アフリカの人々ではなかった。

当時の日本人は同じ有色人種でありながら黒人に差別観があったが、それは、白人の人種差別への反感の裏返しであり、欧米文化を礼賛しつつ有色人種として十把一絡げに軽んじられることは我慢できないプライドであった。一方で自らを支配者と認識し、アフリカを帝国主義的な拡張の参考事例のように見る向きがあったと同時に、日本にはアジア・アフリカとの大同団結をして白人のヘゲモニーに対抗しようという大アジア主義的な考えもあった。大東亜戦争につながる国粋主義の思想が、実はアフリカへの関心にもつながっていた側面があったのである。そこには、日本を中心にアジア・アフリカが連合すべきだが、そのためにはとにかく日本人だけでも欧米人と対等にならなければ、といった矛盾する考えがあった。

経済的には、20世紀初期の日本のアフリカとの絆は驚くほど強かった。第一次大戦後の世界的不況の中で、ヨーロッパ経済のブロック化が進み、日本は輸出市場の新規開拓に迫られた。アジアほど排外的規制がなかったアフリカは格好の対象だった。日本の商船会社が最初のアフリカ航路を開始したのが1916年(南アフリカ経由南米行き)で、順次東アフリカ、西アフリカにも航路が開かれた。日系商社が東アフリカで原料綿花の買い付けから、日本製綿布の販売促進を行い、一時は現地生産もしていた。例えば、岡倉・北川の報告によれば、1936年の東アフリカの綿織物輸入のうち80%は日本製品であったという。エチオピア、エジプトでも同様であった。こうした日本のアフリカ市場での急激なシェアの拡大は、欧州列強に警戒感を抱かせた。

日露戦争以来、アフリカの人々は、日本人は勇敢で、西欧に立ち遅れた有色人種の国でありながら、西欧文化を上手く伝統に取り入れ、短期間に白人に伍す能力を身につけたロールモデルのように見ていた。当時、エチオピアを始め、アフリカの国々では日本研究が盛り上がったのである。しかし、日本は有色人種の雄たろうとする立場と帝国としての拡大外交を天秤にかけた。イタリアとの開戦前夜のエチオピアと日本は経済的結びつきが密接であったうえ、皇帝の子息と日本人女性の婚約話まで浮上し、日本はエチオピア熱に沸いていた。藤田や岡倉・北川は、この婚約話は、両国の政治・経済関係強化の隠れ蓑だったのだろうと分析している。エチオピアは、恐らく経済的関係のみならず、対イタリア戦争への軍事支援をも日本に期待していたのだろうという。しかし、折悪く日本は満州事変を起こしたばかりで、極東での侵略に口を出されたくない日本は、エチオピア、ひいてはアフリカから次第に手を引いていくこととなった。アジアでの日本の拡大ぶりはヨーロッパの反日感情を生んでおり、フランスの新聞でも、「イタリアのエチオピア出兵は、日本のアフリカ侵略を阻止すべく経った欧州列強の権益保護の戦いだ」と断言していたという(藤田:208)。

戦後、その距離の遠さも手伝って、日本人の間でアフリカが強く意識されることはあまりなかった。しかし、南アフリカで日本企業が「名誉白人」として広く経済活動を行っていたことは、日本のアフリカへの経済的関与が戦前の日ア関係の上に継続しており、アフリカにおいて白人に「伍して」いこうとする日本の姿勢を示している。1980年代にエチオピア飢餓の映像が大きく報道されたときも、アフリカの情報が日本の大衆に伝達されるのは、日本の独自の情報源からではなく、欧米の問題意識の反映である。欧米が問題として取り上げなければ日本にはほとんど知られない。そして、それらが伝わってくるときには、欧米の価値観のレンズを通した後であり、アフリカの生の状況を我々が自ら観察し、関与し、解釈したものではないことが多い。「植民地支配の歴史がなく、欧米とは違った独自性がある」とは、日本の援助についてしばしば言われることであり、そのような期待感がアフリカの人々から表明されるのも、私自身何度も聞いている。しかし、私には、日本が、有色人種の雄でありつつ支配する側であろうとした歴史の遺産を、今も受け継いでいるように思えてならない。アフリカに援助をするのに、アフリカは国際的援助コミュニティで日本が認知されるためのデモンストレーションの対象であって主体ではないかのように見えることがあまりに多い。「日本の独自性」は、アフリカに対してでなく、援助コミュニティに示すためのものなのか。現在は、多くの援助関係者が現地で活動しており、今後は現地への権限委譲が進んで益々現地の役割が大きくなっていくのであろう。こうした現場の日本人の奮闘や意見が、援助機関内の事務処理の中に埋没せず、マクロの政策形成にまで影響すること、日本人の目で見たアフリカ像に基づく日本独自の援助が行われることを願って止まない。

注1:藤田は、日本人のアフリカ観を安土桃山時代まで遡って分析しているが、他の2書は明治以降第二次大戦前後までに焦点を絞っているので、本論でも明治以降についてのみ述べることとする。


 紹介した本の著者情報

藤田みどり 東北大学大学院国際文化研究科教授
専攻:比較文学・比較文化、アフリカ研究
主要著書:「日本人のアフリカ認識−アフリカおよびアフリカ人をめぐるイメージ形成とその変遷」(『岩波講座 世界歴史』14、岩波書店2000)
岡倉登志 大東文化大学教授
専攻:アフリカ研究、歴史
主要著書:「ブラック・アフリカの歴史」(三省堂 1979)、『「野蛮」の発見−西欧近代のみたアフリカ』(講談社 1990)
北川勝彦 関西大学経済学部教授
専攻:経済史、国際経済論
主要著書:「南部アフリカ社会経済史研究」(関西大学出版部 2001)、「アフリカ経済論」(共編著、ミネルヴァ書房 2004)
青木澄夫 中部大学教授
専攻:国際協力、日本アフリカ関係 国際協力事業団でケニア事務局所長等を経て現職
主要著書:「アフリカに渡った日本人」(時事通信社 1993)、「よみがえるアフリカ」(共著、日本貿易振興会 1993)、「日本とアフリカ」(共著、頸草書房 1994)

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