ガーナ案内

在ガーナ日本大使館作成*
(2004年4月作成)

1. 概観

@地勢
面積は238,537ku (日本の約3分の2)。地形は南岸は大西洋・ギニア湾に面し、東にトーゴ、西に象牙海岸共和国、北にブルキナ・ファソといずれも仏語圏の国々に囲まれている。

A気候
年間を通じ平均27度、平均湿度80%と高温多湿で、乾季(11月〜3月)と雨季(4月から8月)とに分かれる。11月〜2月には、ハマターンと呼ばれるサハラ砂漠から砂を含んだ風が吹き寄せるので、どんよりした埃っぽい日が続く。その後の2月から4月は雨も無く太陽が直接照りつける猛暑となる。雨季は、湿度はやや高くなるが、それまでの乾季と比べると気温が下がり、遥かに凌ぎやすい。

B人口
ガーナ共和国の人口は約1890万人、うちアクラに約160万人 (2000年国勢調査)

C民族
アシャンティ族(クマシ周辺)、ガ族(アクラ周辺)、エヴェ族(ボルタ地域)、ダゴンバ族・マンプルシ族・ゴンジャ族(いずれも北部)等、100以上の部族が存在するといわれている。

D宗教
全人口の約69%がキリスト教、約16%がイスラム教を信仰している。他に伝統宗教(8.5%)等様々な民族宗教がある。

E通貨
セディ(=Cedis)。 1US$=約8,850セディ(2004年4月14日現在)

2. 略史

1957年 3月 独立(クワメ・エンクルマ首相)
1960年 7月 共和制に移行。エンクルマが初代大統領に就任。
1966年 2月 軍・警察によるクーデター(国外訪問中のエンクルマはギニアに亡命)
1969年 9月 文民政府発足(ブシア首相)
1972年 1月 軍部クーデター(アチャンポン陸軍中佐(当時)政権奪取)
1978年 7月 アチャンポン大佐辞任。アクフォ大佐が国家元首に。
1979年 6月 ローリングス空軍大尉(当時)による軍事クーデター
1979年 9月 民政移管、リマン大統領就任
1981年12月 ローリングス元空軍大尉(当時)による再度のクーデター
1992年11月 大統領選挙(ローリングス選出)
1992年12月 国会議員選挙
1993年 1月 民政移管、ローリングス大統領就任
1996年12月 大統領および国会議員選挙
1997年 1月 ローリングス大統領再任
2000年12月 大統領および国会議員選挙
2001年 1月 クフォー大統領就任

3. 政治体制・内政

@政体:共和制

A 元首:ジョン・アジェクム・クフォー(John Agyekum Kufuor)大統領(任期4年)。

B 議会:一院制(定数200)

C 政府:首相:首相職なし。 外相:ナナ・アドゥ・ダンクワ・アクフォ・アドゥ(Nana Ado Dankwa Akufo-Addo)

D 内政概況:
1957年エンクルマ初代首相の下、サブ・サハラ以南初の独立国となったガーナは、60年に共和制に移行し、エンクルマが初代大統領に就任。その後、他のアフリカ諸国と同様に数度のクーデターを経た後、79年、当時のローリングス空軍大尉が汚職にまみれたアクフォ軍事政権をやはりクーデターにより打倒したが、民政移管を行ったリマン政権下で政情不安に陥ったのを見て、再びクーデターを起こすとともに、暫定国家防衛評議会(PNDC)を組織し、その議長に自ら就任して政権を担当した。ローリングス政権は当初社会主義的イデオロギーを指向する姿勢を見せていたが、経済状態の不調が続き、次第に西側諸国との協調路線をとるようになり、ドナー各国からの支援を受けつつ経済を安定させることに成功した。

ローリングス政権は92年に複数政党制を盛り込んだ民主憲法を導入し、92年及び96年 の大統領選挙では自ら立候補したローリングスが当選し、やはり92年、96年に行われた国会議員選挙についてもローリングス率いる国民民主会議(NDC)が過半数を制した。ローリングス大統領は世銀・IMF等の構造調整プログラムによる国営企業の民営化を推進する一方、金や農産物の輸出振興、国外からの資本導入等にも積極的に取り組み、そのカリスマ性から圧倒的な支持を得ていた。しかし、90年代後半よりインフレの進高、高い失業率などにより、20年近くにわたるローリングス政権に対する国民の不満が高まったこともあり、2000年12月の大統領選挙では後継者(現行憲法は現職大統領の三選出馬を禁止している)のミルズ副大統領(当時)が敗れ、最大野党であった新愛国党(NPP)のクフォー候補(大統領選の立候補は3度目)が当選、同時に行われた国会議員選挙においてもNPPが勝利し、大きな混乱もなく円滑な政権交代が行われた。(2004年4月現在200議席中NPPが103議席を占める)

 クフォー大統領は2001年1月の新政権発足にあたり、女性大臣、経済計画大臣、メディア担当大臣などを新設ポストとして任命し、青年、女性問題、経済問題を重視する布陣をとると共に、メディアを通じて国民との接点を強化し、また政権の透明性を図った。クフォー政権は、20年間にわたるローリングス政権がもたらしたものは、汚職や失業、高インフレ、巨額の国家負債、国家の海外援助への依存などに見られる経済の破綻であるとして真っ向から批判し、汚職ゼロを目標としたクリーンな政権の確立と民間経済の活性化を標榜している。クフォー政権の取り組みについては変化と汚職追放を求める国民の支持が高く、国軍もクフォー大統領に忠誠を誓っており、政治的に安定している。2001年3月、ガーナは重債務貧困国 (HIPCs)イニシアティブ債務救済措置の申請を決定した他、石油価格及び電気、水道、電話などの公共料金の値上げ、金融政策の引き締めなどの政策を実施したが、公共料金の引上げは2002年、2003年と相次いで実施されている。クフォー政権1年目の2001年にはガーナ通貨の対米ドル価値は安定し、また物価上昇率も鈍化傾向を見た。2002年もおおよそ同様の傾向にあったが、2003年に入り通貨価値は安定的に推移しているものの公共料金値上げや最低賃金の引き上げに伴い、一時物価は大幅な上昇傾向を見せた。しかし、5月以降は物価上昇率が減少に転じ、04年3月時点まで安定的に推移している。

4. 外交・国防

@外交の基本姿勢
(イ)非同盟中立。
(ロ)西側寄りの現実外交推進。
(ハ)国連、地域機構との協力にも積極的。(2003年1月より、クフォー大統領は西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の議長を務め、同年12月には議長に再選されている。)

A 国防(2003年)
(イ) 予算:2,853億セディ(約3、580万米ドル、2002年)
(ロ) 兵役:志願制
(ハ) 兵力:6,850人(陸軍5000人、海軍850人、空軍1000人)
* 在外兵力としてECOWAS軍、国連平和維持活動(2003年時点で約2,000名:世界第5位)に参加・派兵

5. 経済

@経済概況
要産業は農業(カカオ豆)と鉱業(貴金属・非鉄金属)で、2001年の一人当たりのGNIは290米ドル、2002年のGDP成長率は4.5%。

独立当初は豊富な人的及び天然資源(金・マンガン等)に恵まれサハラ砂漠以南アフリカ諸国の中で高度な発展が見込まれていた。しかし、数度のクーデターに伴う政情不安などで経済情勢は悪化の一途を辿る事となった。このため、当時のローリングス暫定国家防衛評議会議長(=国家元首)は世銀・IMFの協力を得て83年に「経済復興計画」を策定し、国内経済はある程度落ち着きを取り戻した。以来、GDPは毎年ほぼ5%の成長を続け、ガーナは世銀・IMFによる構造調整の優等生として位置づけられてきた。

一方、99年〜2000年にかけての主要輸出品であるカカオ、金の国際価格低迷と主要輸入品である石油の国際価格上昇がガーナ経済を圧迫した。その結果、国際収支、財政収支の悪化とセディの急激な為替安を生じており、当面政府は金融政策の引き締めなどによりマクロ経済の回復を図っている。

このような状況の中、96年のリヨン・サミットにおいて、重債務貧困国(HIPCs)イニシアティブによる債務救済が国際的取組みとして宣言され、債務管理が持続可能となるレベルまで債務の削減が行われることになり、さらに99年6月のケルン・サミットにおいて拡大HIPCイニシアティブが提唱された。この時点では、ガーナはHIPCイニシアティブの適用を受けずに、債務を返済し続ける旨発表したが、上述のような経済状況悪化の中、国民の間でも変革を求める声が上がり始めていた。そのような中、2001年1月に誕生したクフォー新政権は、同年3月に同イニシアティブに基づく債務救済措置の適用を申請することを決定した。

新政権は、債務救済により利用可能となった資金を基に、国内債務の返済を進めると同時に、貧困削減に積極的に取り組んでいる。また、2003年よりガーナ貧困削減戦略ペーパー(GPRS)が作成され、現在同戦略で重要課題とされた民間セクターの育成、農業部門の生産性向上などを軸とした国内経済の復興を目指しており、同年、世銀・英・EU他によるマルチドナー一般財政支援(MDBS)が2億5000万ドル規模で開始されている。一方、ガーナは、2002年2月末には、HIPC債務救済の決定時点(Decision Point)に到達し、2004年に予定されている完了時点(Completion Point)の到達後は、約30億ドルが返済不要となる予定である(我が国の債務帳消し額は、約8億ドル)。

2003年には、ココア及び金の国際価格が上昇し、国際収支及び各マクロ経済指標の改善がみられ、外貨準備及び対ドル・ユーロ・英ポンドなどの主要通貨に対するセディの為替相場も比較的安定している。こうしたマクロ面の成果を持続するためにも、ガーナ政府は、適切な財政管理に向けた取り組みを進めている。一方、各種補助金の撤廃などにより、公共料金等の値上げもつづいており、今後は、こうした各経済指標に表れる経済の改善を、雇用の拡大などを通じ、国民が実感できるよう政策を実施していくことが求められている。

A 貿易
輸出20.1億ドル 輸入27.05億ドル(2002年、FOBベース)
輸出主要品目は金、カカオ豆、木材で、その相手国は、スイス、英、独、米、仏が主。我が国は貨物自動車、バス、鉄鋼版(めっき)、乗用自動車、有線電話などを輸出。
輸入主要品目は石油、自動車、食料品で、相手国は、英、ナイジェリア、米、独、スペイン。我が国はカカオ豆、ダイヤモンド、マンガン鉱、水産物(イカ、タコなど)、木材などを輸入。

B 経済協力
我が国はガーナの経済改革に対する取り組み、民主化プロセスの進展、西アフリカ地域の政治的安定に向けての貢献を高く評価しており,それらをさらに慫慂すべく、ガーナをアフリカにおける我が国援助の重点国と位置づけ援助を実施している。我が国の対ガーナ援助は1973年度の食糧援助に始まり、その後除々に拡大していたが、ガーナのHIPCイニシアティブ参加により、我が国有償資金協力の実施が不可能となったため、2000年以来支援総額は大幅に激減し、2001年時点で支出総額ベースで世銀・英・米・蘭・加に次いで第6位となっている。近年、HIPC入りの影響のみならず、GPRSの策定、他ドナーの財政支援、セクターアプローチへのシフトなど、ガーナの開発支援を取り巻く環境に大きな変化が生じているため、右状況に対応するために、2003年、我が国は、対ガーナ支援の主要ドナーの一つとして、より効率的に対ガーナ支援を行うべく、現地タスクフォースは2000年に策定されたガーナ国別援助計画の改訂作業を開始した。

同作業において、従来以上にガーナ政府ハイレベル及び実務レベルとの政策対話を強化し、GPRSにおいてガーナ政府がめざしている開発の大目標(貧困削減を伴う経済成長)の達成のため、我が国が比較優位を有する課題に比重を置いて中期的視点で(「農村部の活性化」及び「ポテンシャルを活かした産業育成」)案件形成を図っている。(2002年度までの累計は、無償資金協力;619.75億円、有償資金協力1259.91億円(いずれも交換公文ベース)、技術協力;333.63億円であり、サハラ以南のアフリカ諸国に対する我が国の二国間援助においては、ガーナは、ケニア、ザンビア、タンザニアと並ぶ主要援助対象国となっている。)

〈参考〉 過去5年間の援助実績(単位:億円、有償・無償はコミットメント・ベース)

  98年度 99年度 00年度 01年度 02年度
無償資金協力 57.11 25.78 40.26 7.42 13.11
有償資金協力 96.51 59.91 0 0 0
技術協力 19.38 18.95 23.89 20.88 16.95
合計 173.00 104.64 64.15 28.30 30.06

6. 二国間関係

@ 領事関係

(イ)在留邦人 2004年4月16日時点では231人で主な構成は、JOCV(青年海外協力隊員)43名、JICA職員及び専門家(家族含)57名、大使館職員(家族含)34名。また、民間企業は7社(伊藤忠商事(株)、丸紅(株)、西澤(株)、アグリ・マリン・サポート・ガーナ、大成建設(株)、トヨタ、(株)片平エンジニアリング)。また、経済協力のプロジェクト関連でコンサルタント等関係者の長期滞在・出張も少なくない。

(ロ)査証 2003年ビザ発給件数は630件。2002年は657件であったため、若干の減少となった。

(ハ)治安 当国は西アフリカの中でも治安は良いとされていたが、最近の経済状況の悪化に伴い、2002年より、悪化の傾向にある。そのためこれまで報告の少なかった武装強盗団による外国人の被害報告が増加し、2002年には武装強盗団による邦人の被害報告も数件発生した。2003年は政府当局による取り締まりの強化が一定の効果を挙げ、邦人の被害件数が減少したが、2004年は選挙の年でもあり、治安の悪化につながるおそれもあるため、注意が必要である。 夜間等の不急の外出を控え、夜間外出が必要な場合には、複数且つ車両で行動する等の注意が必要である。

A 広報文化

ガーナにおける一般大衆の全般的な対日理解は高くないといえるが、有識者層には日本が高い技術水準を持った経済大国として広く認識されている。当館は「インフォメーション・ブレティン」を3ヶ月に一度発行し、日・ガーナ関係について経済協力分野を中心に日本の社会・文化等とともに紹介したり、広報テレビ番組「ジャパン・ビデオ・トピックス」(文化・習慣・政治・経済などを網羅)を国営放送を通じ放映し、我が国の総合的広報を行っている。また、1998年から毎年12月頃に日本文化週間と銘打って、文化講演、映画祭、展示などの日本紹介事業を行っており、2002年にはガーナ人500名を超える参加者を集めた「よさこい踊り」大会を初めて開催した。2003年には2度目の大会が開催され、900名が参加した。

B 要人往来

(イ)日本から(1988年以降)
1988年 8月 日・ガ友好協会ミッション(団長:愛知議員)
1991年 7月 国際人口問題議員懇談会視察(団長:鹿野議員)
1992年 2月 自民党経協特別委員会ODA視察団(団長:杉浦議員)
1993年 1月 谷川特派大使(大統領就任式典参列)
            5月 高円宮憲仁親王、同妃久子両殿下(公式訪問)
            8月 日・ガ友好協会ミッション(団長:愛知議員)
1999年 5月 橋本外交最高顧問夫妻   
2001年 8月 武藤元外相衆議院議員一行
2004年 1月 田中外務大臣政務官

(ロ)ガーナから(1989年以降主要なもの)
1989年 2月 ローリングス議長(大喪の礼)
1990年11月 コジョ・チカタ副議長(即位の礼)
1993年10月 ローリングス大統領、ボッチウエイ大蔵・経済企画大臣、アダム農 業大臣、トビビ・チクワ情報大臣(アフリカ開発会議出席)
1994年 2月 ガーナ議会訪日団(団長:チャンバス第一副議長)、ボッチウエイ大 蔵・経済企画大臣   
1997年12月 ローリングス大統領夫妻、ベホ外務大臣(公式実務訪問)
1998年10月 ローリングス大統領夫妻、ベホ外務大臣(第2回アフリカ開発会議 出席)
2000年 6月 ローリングス大統領夫妻、ベホ外務大臣(非公式訪問)
2001年 5月 ローリングス前大統領(OBサミット)
          6月 メンサ国会担当大臣、オサフォ=マーフォ大蔵大臣、イドリス外務副 大臣(非公式訪問)
         12月 メンサ上級大臣、国家経済チーム議長、イドリス外務副大臣(TICAD関連レベル会合)   
2002年10月 クフォー大統領、メンサ上級大臣、オウス・アジェマン外務大臣(公式訪問)
2003年 9月 クフォー大統領、アクフォ・アドゥ外務大臣他(第3回アフリカ開発会議=TICADV出席)

C 二国間条約・取極
1963年 3月 貿易取極
1977年 2月 青年海外協力隊派遣取極

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7. 一般的注意事項、8. ホテルガイド、9. レストランガイド、10. 土産物店、11. 観光、12. 航空会社、13. 緊急連絡先は割愛させて頂きました。

*本ガーナ案内は、在ガーナ日本大使館の許可を得て掲載しております。

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