研究者インタビュー


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研究者インタビュー No.10

話し手:

砂野 幸稔 氏 (熊本県立大学 文学部 教授)
聞き手: 山田肖子、尾和潤美、鈴木明日香
実施日: 2007年9月3日  15:30-17:00


1. 聞き手:アフリカに興味を持ち始めたきっかけを教えて下さい。

砂野氏:一人のアフリカ人留学生と出会い、彼が一冊の本を貸してくれことがきっかけです。

私は、1973年に京都大学に入学し、熊野寮という学生寮に住んでいましたが、同じ寮にケニヤからの最初の日本政府給費留学生として法学部の大学院に在籍していたムアンギ氏(Gordon.C.MWANGI、現在、四国学院大学応用社会学科教授。詳細はhttp://ousya.jp/g/staff/mwangi.htm#1をご覧下さい)がいました。その彼が貸してくれたのがケニヤの作家グギ・ワ・ジオンゴの『一粒の麦』でした。私は文学部のフランス文学科に所属していましたが、当時は研究者になる気はまったくなく、将来何をするかという展望もなくフランスの実存主義文学についての卒業論文の準備を始めていました。人間についての抽象的な言葉の迷路に迷い込みかけていた私にとって、アフリカというまったく未知の世界で生きる一人一人の人間の具体的な生が圧倒的なリアリティをもって迫ってくるこの作品は、とてつもなく新鮮なものに映りました。すぐに彼の紹介で、宮本正興氏や楠瀬佳子氏を中心に結成されたばかりだったアフリカ文学研究会に参加し、この研究会の存在に支えられる形で、それ以降フランス語アフリカ文学研究をテーマとして研究を続けることになりました。  

ムワンギ氏との出会いがなければ、たぶんまったく別の道に進んでいたでしょう。

聞き手:当時の日本におけるアフリカ研究は今と比べてどのようなものでしたか?

砂野氏:今では、アフリカ研究がかなり体系化されている大学もあるようですが、当時のアフリカ研究は研究者が散在しているような印象がありました。ただ、私が学んだ京都大学では、主に人類学や霊長類学が主流だったような気がしますが、アフリカを研究する人が比較的多かったです。また、和崎洋一先生らを中心とする京都大学人類学研究会(通称:近衛ロンド)というような研究会も開催されていました。

聞き手:先生はフランスにも留学されたわけですが、フランスを通じてアフリカを研究することに対してどのような印象をお持ちですか?

砂野氏:フランスで学ぶという環境は、アフリカ人の学生や研究者も多いので、悪くはないと思います。一方、直接アフリカを学ぶのではなくフランスというフィルターを通していますので、確かにある種のバイアスはかかると思います。また、ヨーロッパ語で書かれたアフリカ文学の研究については、フィールドでの研究を行う人類学研究者などから「エリートが英語やフランス語で書いた書物から何がわかる」と批判されることもありましたが、その批判自体は的はずれであるとは思いつつ、私自身としても英語やフランス語だけに頼るのではないアフリカ研究をしたいという気持ちはありました。

2. 聞き手:そのような想いが募り、アフリカの現地を訪問されることになったのだと思いますが、文学者として現地を訪問された印象はどうでしたか?

砂野氏:大学に就職して30歳を過ぎてからセネガルに行ったのが初めてのアフリカ訪問でした。アフリカに行こうと強く思うようになったのは、その後アフリカ文学研究会の活動を通じて直接言葉を交わすこともできたグギが、英語での創作活動をやめ、ギクユ語での創作活動を始めたことが一つの大きなきっかけでした。グギは「英語やフランス語で書かれた作品は真のアフリカ文学とは言えない。真のアフリカ文学はアフリカ人の言語で書かれるべきだ」と主張したのですが、実はセネガルでも、フランス語作家そして映画監督としても著名なセンベーヌ・ウスマンらが、フランス語支配を批判し、セネガルの主要な言語であるウォロフ語による雑誌の発行を行っていたのです。それで、セネガルではこの問題について現地の作家や知識人がどのようなことを考えているのか直接会って聞いてみたいと思いました。また、センベーヌがセネガルの「国語」として育てるべきだとしているウォロフ語(セネガル人の95%によって使用されていると言われる)が、実際にはどのような位置にあるのか知りたかったのです。

セネガルを実際に訪問して、それまでの書物のみを通じた研究だけではわからなかった多くのことを知りました。まず何よりも、フランス語は一般の人々の日常生活の言語とはなっていないという当たり前の現実が目の前にありました。他方、ウォロフ語をはじめとするセネガルの諸言語は、東アフリカのスワヒリ語やギクユ語とは異なり、書記言語としては整備されていなかったということも知りました。ギクユ語は1950年代には既に書物が出版されており、スワヒリ語はドイツによる植民地時代から書記言語としての整備が行われていましたが、セネガルのウォロフ語は広域共通語でありながら、書記言語としてはまったく整備されていませんでした。したがって、ウォロフ語などのセネガルの諸言語を、スワヒリ語のように書記言語として教育や行政にすぐに導入するということは容易なことではないのです。また、大言語であるウォロフ語と、プラール語などの他の有力言語との関係も、問題を複雑にしていました。「外国語のフランス語ではなく、アフリカ人の言語こそ本当の国語である。真のアフリカ文学はアフリカ語で書かれなければならない」と主張するだけではどうにもならない現実が目の前にあったのです。

この10数年間、私は、ウォロフ語文化の研究とともに、セネガルの諸言語間の関係についての社会言語学的研究やセネガル政府の言語政策についての研究を行っていますが、それは、文学についての研究の前提として、その基盤となる言語の問題についても意識的でなければならないということを、グギやセンベーヌの主張に触れることで学んだからです。

3. 聞き手:アフリカの言語教育は、特に植民地時代を経験しているという点で、国家としてのナショナリズムのあり方に深く関連していると思いますが、先生はこの点についてどうお考えですか?

砂野氏:「国語」と「国民文学」の制度化は、実は近代の「国民国家」形成過程で重要な意味を持つ出来事でした。例えば、日本で初めて帝国大学が創設されたとき、そこには文科大学が置かれ、英文学科、独文学科などとともに和文学科(後の国文学科)が早速設置されていますが、これは日本「国民」形成の根幹となる文化的一体性の醸成のために、当時の西欧列強で教育制度の中に重要な位置を与えられていた各国の「国民文学」研究を参照する形で行われたものでした。言語が標準化され、書き言葉として普及するとともに、その言語で書かれた文学が成立することによって、広く共通の「国民」としてのアイデンティティが形成されていくということは、ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』で示したことですが、「国語」による「国民文学」の形成は、近代国民国家の「ナショナルな」共有空間のひとつのバックボーンであったのです。  

英語やフランス語によるアフリカ文学は、こうした近代ヨーロッパの「国民文学」を参照する形で、反植民地主義ナショナリズムのひとつの表現として登場したのですが、決定的な問題として、この文学はイギリス文学にとっての英語、フランス文学にとってのフランス語にあたる「国語」をもたない文学だということがありました。脱植民地化の過程でアフリカのナショナリズムが沸きあがった当初は、植民地支配者の言語であるフランス語や英語を使用することが問題視されることはほとんどありませんでした。当時のアフリカ文学の土台を築いた著者らの想いは、植民地支配者であったヨーロッパの国々の文学のなかにおけるアフリカ人の不在を前にして、アフリカにも文学はあり、アフリカの中にも人間は存在するのだということを示すことにありました。独立後の各国の公教育を英語やフランス語で行うことについても 、多くのアフリカ人知識人たちはそれほどの問題を感じることもありませんでした。

しかし、しばらくすると、当然のことながらこの「アフリカ文学」には対応する「国語」がなく、文学や教育において使われているのが「外国語」にすぎないことを問題にする考え方が現れてきます。グギのように、英語やフランス語で書かれたアフリカ文学を批判し、アフリカ人自身の言語の価値を再認識し、「精神の非植民地化」を唱える人たちが登場するのです。英語、フランス語によるアフリカ文学は、自ら(アフリカ人)を他者(ヨーロッパ人)から引き離すための、いわば外に示すナショナリズムとも言える側面がありましたが、グギらが主張するアフリカ語による文学は、内に向けてのナショナリズムの形成という性格があるかも知れません。しかし、そこにあるのは「国語」による「国民文学」の形成という 、近代ヨーロッパのナショナリズムと同様の動きなのです。

聞き手:アフリカの言語や文学が、アフリカの外部者に対して示すナショナリズムではなく、アフリカの内部の人々に対して持つ影響力はどのくらいあると思われますか?

砂野氏:日本をはじめとするアジア諸国では、ナショナリズムを含め、ヨーロッパから輸入された近代主義的な諸概念が、翻訳語を通して「国語」に組み込まれることで、エリートから一般の人々へと広がり、「国語」によって消化されるというプロセスが一応存在しましたが、アフリカでは、そうしたものは、エリートたちによって英語やフランス語の中だけで語られる抽象的なものにとどまり、一般の人々の日常との関わりが希薄なものにとどまっているように思います。英語やフランス語を読めるアフリカ人は限られていますが、朗唱される宗教詩やさまざまな形で語られる物語や説教など、耳から入ってくる言葉は、それとは逆に圧倒的に大きな影響力を持っています。

セネガルでは近年、セネガル独自のイスラームの文化伝統が特に重要な位置を占めるようになってきているように感じます。セネガルでは植民地支配が広がった19世紀末から20世紀の初頭に、いわば一種の対抗文化としてセネガル独特のイスラームが広がりました。植民地征服によって価値秩序が崩壊した社会において、新たな価値秩序の核として台頭したのがスーフィ系のイスラーム教団でした。こうした教団は最終的には植民地支配者であるフランスと共存する道を選び、フランスから庇護を与えられることになったのですが、「自分たちはフランスとは違った価値をもっている」というナショナルなエートス(National Ethos:民族としての気質)の核としての位置は保ち続けました。その信仰は、しばしばウォロフ語で朗唱される宗教文学を通して表明されますが、それはいまも強い影響力を持っているように思います。

聞き手:アフリカの教育分野において母語を教育言語とすべきという議論がしばしば聞かれますが、これはアフリカに定着すると思われますか?

砂野氏:普及が頭打ちになっている英語やフランス語による教育だけではなく、アフリカ人自身の言語による教育が必要だという考え方自体は正しいと思いますが、「すべての人が自らの母語で教育を受けなければならない」という主張には強い疑問を持っています。

「危機言語救済」や「多言語主義」などというスローガンが掲げられるようになって久しいですが、ヨーロッパで語られる「多言語主義」をそのまま持ち込んだような「母語主義」には問題があると思います。ヨーロッパでは、1992年に少数言語憲章というものが採択され 、少数言語の保護・復興が図られてきました。しかし、これをそのままアフリカに当てはめるのには無理があります。ヨーロッパにおいては、国民国家をつくるために少数派言語を衰退させて公用語が確立さ れ、母語主義はその後になって初めて少数派の言語を話す権利を認めようというプロセスの中で生まれたものでした。つまり、全員が統一言語である公用語を読み書き話せるという前提のもとに、多様なグループの文化的豊かさを保全しようとしたのです。一方で、アフリカの場合はそうした公共性を担保する言語がまだ成立していないことが多いのです。セネガルでは、ウォロフ語は9割以上の国民に理解されますが、書記言語としては教育にも行政にも位置を持たず、他方唯一の公用語であるフランス語を理解する人は少数派です。こうした状況の中で、数千しか話し手のいない言語を含む数十の言語すべてを教育言語とし、「母語教育」を優先事項とするというのは、公共性を担保する言語の成立をむしろ阻害するような方向性だと考えています。それは社会が言語的に分断されるリスクも伴っています。更に、識字教育で教える言語が将来有用であるかを考えて計画しなければ、長期的に見て、その教育の効果が定着するかも疑問です。また、「母語主義」にもとづく識字教育のために大量にドナーからの資金が投入されていますが、多額の資金の流入は別の意味での社会的影響ももたらし、現場においては援助の弊害が出てきているように感じます。

聞き手:そもそも、言語は、その国や人々が有する価値観やアイデンティティの象徴ですので、言語教育の政策を外部から持ち込むこと自体に限界があるのではないでしょうか?

砂野氏:言語の普及はその国、土地の社会、経済活動と密接に関連していますので、その国の社会全体を見る必要があります。

セネガルの現状を考えると、フランス語を学ぶこと自体の意味を考える必要があります。セネガルでは、就学率は独立後しばらくは上昇しましたがその後50%前後で頭打ちになり、実際にフランス語を使っている人の割合を調べると 、それも一部に限られていることがわかります。これは、小学校でフランス語を勉強して卒業しても、多くの場合実際の生活には役に立たないためです。ある言語を定着させるためには、その言語を使って仕事をして収入を得るという経済システムが確立していなければなりません。セネガルにおいて、フランス語を習得することで収入を得ることができる人口は非常に限られているため、実際には、民間の商売において普及しているウォロフ語などを話せる方が学ぶインセンティブが高いのです。

他方、「母語主義」教育の問題として、それが、アフリカでしばしば見られる人々の多言語使用という現実を見ようとせず、あたかも人々が自らの「母語」しか話せないかのようなアプローチをしているということがあります。「大言語が小言語を圧迫する」ということがよく言われますが、セネガルでは、人々が「小言語から大言語に乗り換える」というプロセスよりも、「大言語も話し小言語も話し続ける」という複数言語使用が観察されるように思います。アフリカの多くの地域で見られるように、セネガルでは、都市と農村の間で人の行き来が多いため、農村で使われている言葉が都市居住者の間で死に絶えるということはなく、また、農村でも出稼ぎ経験者が多いため、複数の言語を理解する人がいます。つまり、一つの言語が経済活動の全てを支配しない限り 、一つの言語のみが社会全体を支配することはないのではないかと思います。人々の複数言語使用にむしろ注目し、多くの人が理解する言語により重要な位置を与えるようなアプローチが必要なのではないかと私は考えています。

聞き手:アフリカ文学の研究は、アフリカの社会を研究することにつながるということがよくわかりました。

砂野氏:文学研究者には、他の専門分野が自らの研究領域を狭く限定するのと異なり、社会の中に生きる人間存在全体を常に注視しているという自負がありました。かつては、文学者が世の中全てについて発言する典型的な知識人として見られていたこともありました。たとえば最近戦後日本の復興について論じた坂口安吾の『堕落論』が再び注目されているようですが、この作品のように文学にはしばしば人間存在の価値意識の根幹に迫る力があります。アフリカ文学研究は、アフリカ人について、他の分野からのアプローチとは異なる何か重要なものも見せてくれるのではないかと思います。

私がセネガルで経験したことでとても印象に残っている話があります。セネガルでタクシーに乗った際、持参していた最新式日本製のカメラをタクシーの中に置き忘れてしまいました。タクシーの行方も連絡先も当然わからなかったのであきらめていたところ、何とタクシーの運転手が私を探し出してくれてそのカメラを届けてくれました。そして、御礼を渡そうとしても受け取らず、名も名乗らずに立ち去りました。個人の問題でもありますが、このような倫理観の背景にはイスラームの教えを含めたある文化のあり方があることはおそらく確かで、多額の献金に支えられたイスラーム教団の隆盛もそのことと関係があるでしょう。実際、街中ではコーランを広げて一生懸命に読んでいるセネガル人をしばしば見かけますが、そうした人々が生きる世界の中に分け入ることも、文学は可能にしてくれるのではないかと思います。

4. 聞き手: 最後に、若者に対するメッセージをお願いします。

砂野氏:研究はもちろん大切ですが、若い方には先ずできるだけ多くの言語を覚えて欲しいです。これは生涯の財産になります。例えば、アメリカは、セネガルのダカール大学近くに研修センターを建設してアメリカ人学生を受け入れ、現地の言語研修を実施しています。ホームステイなどを通じてセネガルで言語を習得し 、帰国して博士論文を書いてから、またセネガルに戻ってきて現地の言語を駆使しながら研究を行うアメリカ人学生も少なくありません。日本人学生にはまだそのような恵まれた環境はありませんが 、言語は研究活動に際して必要不可欠な要素です。英語やフランス語の資料や通訳を介した調査では、研究活動に自ずと限界が生じます。西アフリカ研究では、できればアラビア語の知識も欲しいところです。

日本の研究活動のレベルを世界的レベルに上げようと思うのならば、例えば文部科学省の21世紀COEプログラムの予算を途上国の現地に研究拠点を置くことに費やすなどして 、若い人材を効率的に育てて欲しいです。また、若い方には文学作品を多く読んで欲しいです。研究分野が何であれ、文学作品は全ての研究の基礎となります。優れた歴史学者、政治学者や経済学者は多くの文学作品を読んでいます。

                            


〜 センベーヌ・ウスマン  〜
(「アフリカ映画の父」と称されるセネガル出身の作家、映画監督)
彼が自費出版したフランス語の小説『黒人沖仲仕』の表紙には「私の母は字が読めないが、この本の上に指を合わせてくれると思うだけで私は幸せである」という言葉が記されています。彼は常にフランス語が読めない人を意識し、彼らのためにどうすればいいかということを考えて映画製作の道に進みました。その後、モスクワの映画研究所から奨学金を得てウォロフ語で映画を作製し、民衆のための芸術を確立しました。

 

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