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研究者インタビュー


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研究者インタビュー No.9

話し手:

舩田クラーセンさやか氏
(東京外国語大学 専任講師/(特活)TICAD市民社会フォーラム 副代表)
聞き手: 山田肖子、尾和潤美、鈴木明日香
実施日: 2007年7月12日  10:00-11:30

1. 聞き手:先生がアフリカを研究されることになったきっかけを教えて下さい。

舩田氏:私は、学部時代はラテンアメリカの研究をしており、言語はポルトガル語を学んでいましたので、ブラジルに留学しました。当時、アフリカに対する興味がなかったわけではないのですが、特にポルトガル語圏のアフリカ諸国は紛争中だったので、いつか行ければいいなあと思っていた程度でした。ブラジルから帰国した当時は、終わらないと思っていた冷戦が終焉し、国連平和維持活動(PKO)への期待が高まった時期でした。そこで、このPKOの可能性について勉強するため、修士課程に進みました。しかし、修士課程の途中で現場に行きたいという思いが強くなり、自分の強みである言語(ポルトガル語)を生かして仕事ができる、アフリカのモザンビークでのPKOミッション(ONUMOZ)に応募しました。結局、1994年5月〜12月まで、国連ボランティアとして、選挙部門オフィサーとして働く機会を得ました。当初、研究者の道に進むつもりはなかったのですが、実際に現場に行くことで、国連の限界や外部者としての地域社会へのかかわりの限界(外部からの関与が如何に失敗するか)を実感しました。モザンビークでの任期を終えてそれぞれの国へ帰国する飛行機の中で、周りの国連の同僚は既に次の仕事の話をしていましたが、私はモザンビークの経験を一つのステップや事例と捉えて次の仕事に進むことに違和感を覚えましたので、止まって考えようと思いました。というのは、国連の仕事ではどうしてもモザンビークの人々との関わりが一方的で薄っぺらいものになってしまったので、当時の私は、もっとじっくりモザンビークの人々の声を聞きたい、と感じていたからです。モザンビークでの経験を踏み台にして前に前に進むより、立ち止まって聞き・考える方が自分にとって重要だと思ったからです。当時の私はまだ若かったですし、むしろ後になってから止まろうとしたらそれは難しいだろうと思いました。後から考えると、その「止まって考えること」が、現在の研究の道につながりました。

もう一つ、次の国連ミッションに行くのではなく、日本に留まって研究するきっかけとなった出来事は、モザンビークから帰国して数週間後に経験した阪神淡路大震災でした。当時、私は神戸で大学院生として修士論文を執筆していましたが、震災の日に神戸に行くことになっていたこともあり、また緊急事態の対応に慣れていたこともあり、急いで被災地に向いました。ボランティアの受入れを唯一実施していた神戸市の中央区役所に行くと、そこには日本全国から数千人、最終的には数万人単位でボランティアの人たちが押し寄せてきていました。他方、役所の人はボランティアに対し複雑な感情を抱きながら対応しており、ボランティアの組織化と主体的な活動運営が重要な課題となっていました。そこで、震災発生から半年にわたって役場に寝泊りしながらボランティアの調整を行いました。モザンビークとは異なり、「地元」(正確には違うのですが)の人間として、「援助」をされる側に立ってみると、非常に色々なことを痛感するようになりました。

よく分かったことは、「援助」する側の論理(donor driven)が、同じ日本国内でも根強いのだ、という点です。これは行政に限ったことではありません。一般市民(ボランティアを含め)もまた、「援助」を受け入れる側のキャパシティや気持ちを考慮することなく、とにかく「善意」に基づいてどんどん踏み込んでくる、ということに気づきました。例えば、役場の前に積み上げられた援助物資は、その象徴です。全国から善意で送られてくるのですが、数・質・日持ちの点で、配布に足る物資はごく僅かでした。近所の皆さんで握ったのであろうおにぎり、毛玉だらけのセーターや下着までを含む古着。このようなものを一つ一つ空けて中身を確認し、要るもの要らないものを分けて、数が丁度の避難所に送るという作業をするだけの人員を割くということは、緊急事態において非常に難しいことです。まだ、負傷者の数ですら確定していないような段階で、全国から大量に降ってきた「応援」「物資」は受け入れ側のキャパシティと本来やるべき業務を逼迫したことは言うまでもありません。多くの使えない物資は、今ポートアイランド沖に出来た神戸空港の地盤の下に眠っています。

また、自戒も込めていうのですが、物資や人手の援助は、被災地の人たちの自活能力や互いの助け合いも低めてしまいました。震災後に年配の方々の足腰が弱くなり自力で立てなくなった人も多く出ましたが、同じことが新潟でも起こっているようです。今思うことは、アメリカなどが実施している被災者への現金給付の有効性です。神戸は特に、山間部の過疎地ではなく、飲食業が盛んな街でしたので、人々にお金を渡して、地元のレストランなどでそのお金を使って食事をすれば、経済復興は可能なはずでした。実際、コンビニなどは、物資が不足していて商売になると踏んで、すぐにバイクで供給網を再構築して早期に再開したほどでした。勿論、市場と現金給付だけに任せるべき、と言っているわけではなく、受け取る側の中長期的な自立的復興を考慮した支援を考えるべきだ、と言いたいのです。日本国内でのこのような経験を通じて、「援助」を受ける側が本来もっていたはずの主体性や自立性が、外部からの善意によって奪われるということを目の当たりにしました。

また、ボランティア調整の業務を通じて、「援助」をする側の問題を自覚することもできました。震災後の神戸は全国的に注目を浴び、ある意味、神戸に来てボランティアすることがブームのようになっていました。毎日の夕方に、ボランティアのミーティングがあるのですが、そこで面白いことに気づきました。「喜んでもらうためにわざわざ来たのに、有難うと言ってもらえずがっかりした」、「自分は今悩んでいて、自分探しのために来ました」という若者が多くいたのです。これには驚きました。究極のドナードリブン(donor driven)ですね!特に、震災後数ヶ月も経過すると、そのような人が増えました。あの時期に、オウム真理教の事件が起きましたが、私にはそれは驚くようなことではありませんでした。ただし、モラトリアムに悩み、最初の一歩を踏み出そうとした震災ボランティアの若者のすべてを否定するべきではありません。どんな一歩であれ、最初の一歩を踏み出すことで、世界が開け、そこで学ぶことは多くあるのですから。私もそういう経験をさせてもらってきたわけで、その機会の門戸を開いておくことは大切です。しかし、全国のボランティアの人たちに、そろそろ帰ってもらう必要に迫られていました。かといって、追い出すわけにもいかない。そこで、神戸の人々がボランティアの方々に対して「有難う。でも、もう私たちは大丈夫です。」と言える場を演出し、ボランティアの方々からバトンを引き渡してもらって、円満に帰ってもらおうと考えました。

実は、中央区には、春先に「神戸祭り」という非常に盛大なお祭りを開催してきた自治体である一方、そのお祭りには昔から地元の各種の互助組織やレクレーション組織などが多く関わっていました。地域に根ざした住民どうしのソーシャルネットワークが多数あったのに、住民が複数のばらばらの避難所に分かれてしまったこと、「被災者」という受動的な立場におかれてしまったことで、元からのネットワークが弱まっていました。それを復活させてお祭りを企画しようと思いました。しかし、区役所から「震災後のこんな状況で祝い事はできない」と言われたので、それなら大人ではなく震災の影響で子供らしさを失っている子供に楽しんでもらうイベントにしようと、「神戸こども祭り」を企画しました。区長の理解もあり、役所・ボランティア・地元の人々が一体になってこのイベントを準備し、最終的に4万人の参加者がありました。東京ディズニーランドからミッキーマウスがやって来たほどでした。地元の子供のために、地元の人たちが屋台や企画ものをして、それをボランティアが支援するというスタイルを貫き、フィナーレでは被災者もボランティアも役所の人たちも皆が手に手を取り合って会場で人の輪をつくり、バトンを渡しました。

こんな経験もあって、国際協力の仕事は何かを踏みにじってしまうのではないか、という不安もあり、しばらく国際協力からは遠ざかっていました。また、神戸での密度の濃い半年間の疲れもあって、もう二度とNGOやボランティアというものに関わりたくない、と思っていたほどでした。

2. 聞き手:モザンビークと神戸の震災を通じたご経験に共通する点として、「外部者としての関わりとその限界」があると思うのですが、その限界を認識されて外部者として関わることに否定的になることはなかったのですか。また、現在、NGOを通じて活発に活動をされていますが、外部者としてモザンビークにどのように関わられているか教えて下さい。

舩田氏:外部の限界を感じたことで、それを拒絶するつもりはなかったです。というのは、外部者としての限界と同時に、その可能性や役割もあるからです。大災害による人命喪失や大規模破壊という衝撃的な出来事、それに続く長きに渡る被災状況下の世界で生活をしていると、人々は精神的にも疲れ、目の前のことしか考える余裕がなくなってしまいます。ですので、外部の方から冷静な視点で、次に何をすべきか、何が必要かをアドバイス頂くのは非常に参考になりました。重要なことは、外部の人が「自分が関わりたいから関わる」という姿勢ではなく、「援助を受ける側のやりたいことをどう実現できるか」という視点がまず先になければならないと思います。

それでは、私自身がどのように関わっているかというと、モザンビークは私にとって第二の故郷であり、今後もモザンビークに関わり続けるであろうことに変わりはありません。最近ではモザンビーク以外の国にも興味を持ち始めてはいますが、やはり最初に出逢った国に対する思い入れは強いもので、今後もモザンビークを追い続けると思います。一方、「モザンビークの政治変動」という私の研究テーマでは、調査でお世話になった人々の生活に何も寄与できませんでした。一研究者としてはそれでいいのかもしれませんが、グローバリゼーションが進み、国境、人種を越えて人々が密接に関連し合っている現代世界において、また、モザンビーク農村の現実を見た一個人として責任を感じてしまっている私としては、ただ一方的に研究調査して自分のものとして研究成果を発表するだけではいけないと思っています。

農村調査のために滞在していた村で、一人の少女に出会いました。彼女の年齢は10歳でしたが、一緒に調査地を訪問していた当時5歳の自分の息子と背丈が同じくらいで、発育が明らかに悪い状態であることを目の当たりにしました。一方、彼女の兄は11歳で彼女の倍ほどの背丈がありました。その兄妹の発育の違いの原因は、旱魃による食料不足下で、親が年長の男児に優先的に食事を与えているからでした。(実は、この事実に先に気づいたのは、私ではなく息子の方でした。)このような状況を目の当たりにして、研究者として調査した事項を発表するというだけでは私は納得できませんでした。日本はアフリカから遠く、一般の人はアフリカの現実を直接見る機会はほとんどありません。したがって、アフリカの問題は遠くの出来事で、直接的には関係しない問題だと思いがちですが、現実を知ってしまっている我々は自分をごまかして生きることはできません。私自身、留学先や旅行先 を第三世界を中心としてきたのも、世界の現実を肌身で感じ、自分に何ができるかを考えるためでした。私がアフリカ農村に行き着いたのはある意味で必然であり、今後もこだわっていきたいと思っています。そして、「何ができるのか」という部分ですが、これは人それぞれでしょうし、ライフステージのそれぞれの段階で変わってくるかと思います。研究を通じての貢献や、NGO活動、個人的なサポートなど人それぞれの方法があると思います。

私は、TICAD市民社会フォーラムというNGOの活動も行っていますが、他人から見ると研究とNGO活動は必ずしも一貫しているようには見えないかもしれません。しかし、私の中では、両者とも問題意識において根本的に通底しています。それは、過去と現在におけるアフリカ農村の人々の暮らしや声と外部者である自分が、資本主義が発達する形で形成されてきた国際社会の中でどう位置付けられ、関連しており、この関係をどう乗り越えていくべきなのか、という問題意識です。おそらく異なっているのは、その問題意識から発生して「何をするか」という行動のあり方かもしれません。研究においては、14年前から博士論文(「現代モザンビーク政治における『連帯/統一』と『分裂』の起源−モザンビーク北部における解放闘争期を中心に−」)の執筆に着手し、活動においては2000年に「モザンビーク洪水被害者支援ネットワーク」を、2002年には「食糧増産援助を問うネットワーク」を、2004年にはTICAD市民社会フォーラムを立ち上げました。しかし、このどちらもの活動が、子供の誕生や大学での就職と重なったために、夜10時前に子供と一緒に就寝し、明朝4時から6時は論文執筆時間、6時から8時の間はNGO活動時間、8時から子供にご飯を食べさせて保育園に送った後、大学で仕事をするという毎日を送る始末になりました。「綱渡り」という言葉がぴったりなぐらい、綱渡りの毎日でした。パートナーの協力あっての結果ですね。「どうしてそんなに色々できるの?」とよく言われるのですが、一般的には人間は一つのことをやる方が容易だと思われがちですが、脳みそと精神的なバランスとして、私にとって「家族・研究・活動・仕事」のどれも欠くことのできない輪の一部であり、底辺には同じ問題意識が横たわっています。が、さすがに当分大きな論文は書きたくないです。

聞き手:全ての行動が根本的につながっていたというのは、お子さんを育てられていることも影響しているのでしょうか。

舩田氏:そうですね。子供が生まれてから、人間として腹をくくりました。それまでは、今の学生が研究テーマや就職先、交際相手を選ぶ際に「ああでもない、こうでもない」と延々といろいろ悩んでいるように、私もやっぱりそういう傾向がありました。ある意味で、時間をかけて人生の遠回りをすることや、脇道に外れることに価値観を置いていた時期がありましたが、子供が生まれた結果、「どうしてもやらなければならないことだけを、スピーディに、しかも最上級のレベルでやろう」と決心しました。それは、本来なら子供と一緒に過ごすことができる時間を犠牲にするのであれば、自分にとって納得がいく方法で一生懸命に取り組み結果を出さなくては、と強く感じたからです。子供が大きくなったときに、「あなたのせいで出来なかった」ではなく、「あなたがいたから出来た」し、「あなたの応援が社会に役立った」と言いたいと思ったのです。自分の母が、私の妊娠を機に教職を断念したことを、私なりに今でも残念に思っているからかもしれません。

私は14年間モザンビークのある村を調査地として継続的に訪問しており、子供が1歳半の頃から子供も一緒に連れて行っています。最初に連れて行くときには、女性研究者の皆さんからも、双方の家族からも大反対に遭いましたが、そんなことが遠い昔のように子供のモザンビーク訪問も6回目となりました。子供と一緒にアフリカに来ると色々なことに気づきます。子供と一緒だと、とにかく皆さん優しいです。村でも、本当に心からの対応を受けます。子供を連れて行くことで調査時間の短縮という制約を伴いますが、一方で、「こんなに幼い子供を連れてきてまで話を聞こうとしている」という覚悟を理解してもらえ、インタビューの相手から信頼を得ることができてインタビューの質は上がりました。特に現在の調査地の農村の方々は、国連で勤務していた時代の23歳の小娘の時代から、子供や家族を連れた30歳代の女性になるまでの過程を知っているので、人間としての付き合いの中で関係を構築してきました。

3. 聞き手:ご専門のモザンビーク研究について、今後、どのようなご研究を目標とされていますか。

舩田氏:現地でのインタビューを通じて感じたことは、伝統や歴史の継承が危機的状況にあるということです。その理由としては、文章として書かれたものが残っていないこと、若者が学校教育や都市への移住によって農村に残っていないためにお年寄りと語り合う時間が減っていること、共産主義と紛争の結果として伝統行事が中断されたことがあげられます。実際、村のお年寄りに、「あなた方がこのインタビュー以外で伝統や歴史を話す機会はありますか」と聞いたところ、そのような機会はないとのことでした。この結果として、現地の方々よりも私のような外部者の方が彼らの集団の歴史を知っているという奇妙な現象が生じています。従って、私の今後の課題の一つは、インタビューを通じて聞いた話を現地の言葉に訳すことです。

聞き手:歴史の継承がないということでしたが、歴史を構成する主体は国家(Nation)であると考えると、一部のアフリカ諸国においては、紛争によって国家の存在が揺らいでいるために歴史の継承が困難になっているという面もあるのでしょうか。

舩田氏: 歴史の継承という場合、歴史の範囲や定義を考えることが重要なポイントです。というのは、農村部の一般の人々が考える歴史は国家の歴史ではなく集団あるいは地域の歴史であって、それは伝統的に集団の長が伝統儀礼の中で次世代に継承していく歴史です。しかし、植民地時代や紛争期において、外部者が「誰が集団の長であるべきか」という本来であれば集団の人々が伝統的に決める部分に介入したため、現在でも「誰が集団の長であるか、つまり継承者であるか」という点が問題を含んでいます。このような状況下において、自分が長であることを明確に誇示しようとする人達と、その人達に異議を唱える人達との間で緊張感が生じているため、集団の長の継承に関する話をすることはタブーになりつつあります。歴史の話、継承者が誰であるかという話をすることは、権威の源泉や個人の正当性の担保につながってしまうからです。

国家の歴史を考える際に重要なポイントは、現政権が歴史を語ろうとする際、国家の歴史を現政権にとって都合の良い方向に固定化してしまう傾向が強い、という点です。その結果として、国家の歴史は、現政権に反対していた人々の歴史観とは対照的なものになる可能性があります。現在のアフリカの若者は、歴史教育を受ける際、現政権側の視点に立った歴史教育に反発する人と、それが正しいと思う人に分かれますが、歴史教育に反発する人の中には後に反政府ゲリラ活動に参加する人もいます。このように考えると、現在のアフリカで、歴史を考えることは政治を考えることだと言えます。そして、私の歴史研究の根本にあるのも、政治研究のための歴史研究なのです。

聞き手:政治研究のための歴史研究とのことですが、博士論文での歴史研究の後、最近では現代の政治問題についてもご研究を開始されているのでしょうか。

舩田氏:まだ開始したとは言えませんが、アフリカ政治の中でも特に、アフリカ地域機構への先進諸国の関与のあり方について興味をもっています。1960年代のアフリカ諸国は、植民地からの独立を果たした後、アフリカ諸国の統一に向けてOAU(Organization of African Unity:アフリカ統一機構。アフリカ連合(AU)の前進で1963年に設立された。)を設立し、全アフリカの解放やアパルトヘイト終焉のために一丸となって全力を尽くしました。60年代から70年代にかけてのアフリカ地域を研究することは、アフリカ諸国間の協力体制やパンアフリカニズムの理想を見ることができ、非常にエキサイティングです。一方で、アフリカ諸国間の競争や足の引っ張り合いといった駆け引きも多発し、その政治の駆け引きに対して旧宗主国やソ連、アメリカが援助を媒体として密接に介入している実態があり、現在のアフリカを考える上で重要な点が多く見られます。独立直後期のアフリカ諸国において、旧宗主国あるいはソ連やアメリカとの関わりは、今我々が考えている以上に大きなものがありました。この関与は、当然ながら独立後に始まったものではなく、植民地時代―特に植民地末期−に強まったものです。また、この時期は、援助がアフリカで開始した頃と一致していることは重要です。現在、援助業界では当たり前のものとなっている、「開発の10年」「平和部隊(日本の青年海外協力隊のモデルですね)」「ケネディラウンド(食糧援助のものになるものですね)」は、この時期にこそ冷戦対策として始められているのです。したがって、今のアフリカ諸国あるいは域内の政治、援助を考える上で、植民地宗主国あるいは冷戦対立のファクターを見逃すことはできません。

最近では、TICADに限らず、「オーナーシップ」や「パートナーシップ」という言葉が援助の世界で頻繁に使用されていますが、過去においては、アフリカ諸国間の政治的駆け引きの中で単純な旧宗主国という関係を超えたレベルで外部の国がアフリカに介入した結果、現在のアフリカ諸国及び地域間協力体制の脆弱性に大きな影響を与えたことを忘れてはならないでしょう。これはアフリカ政治の理想とは違った「闇の部分」ですが、特にアフリカの国家を考える際に、このような1960年代〜70年代の歴史から学ぶことは非常に大事だと思います。

「アフリカ国家」という課題には、現在のアフリカの多くの問題が集約されています。一般的に、アフリカの問題はガバナンスだといわれていますが、より根本的な問題は、「国家が国民生活の中で国民によってどうのように感じられているか、捉えられているか、関わっているか」ということだと思います。アフリカの国家と国民との間に信頼がないのは、国家権力の拠り所が脆弱だからだと思います。その脆弱さは、民族の多様性や国境の問題といった「特徴」に起因しているということは容易ですが、もっと歴史的な過程を見る必要があります。つまり、植民地支配からの解放を目指し、表面的には国内の分断の問題を乗り越えたと思われる1960年代に遡らなければ深淵は理解できません。従って、アフリカ国家の「独立」前後期において、旧宗主国や東西陣営、近隣諸国からの介入や各政権の画策が行われた理由や過程を調査し、各国の政治に内在する亀裂を明らかにすることで、初めて問題の解決法が見えてくると思います。要は、所与のものとしてアフリカ国家を考えるべきではなく、また、後のアフリカの政治的脆弱性や紛争をもっと歴史的に外部要因を内部要因から切り離すことなく捉える必要がある、と言いたいのです。アフリカ国家がアフリカ民衆を必ずしも守るのではなく、殺戮する方向に進んでしまった過去と現在を、ただスキャンダラスに、あるいはただシニカルに眺めるのではなく、過去を再考し、乗り越える芽がどこにあるのかを一緒に考え、協力するべきだと思います。外部者はせめてその邪魔をしたり、悪い方向にいくことに加担しないようにするためにも、まずは外部者自身のこれまでの関与をふり返るべき、と思うのです。

以上の問題意識は、モザンビーク解放闘争研究を通じてのことです。私は、大量にポルトガルの秘密警察の文書を読んだのですが(この文書は、現在では公開されていますので誰でも読むことができます)、かなり衝撃を受けました。すべてがポルトガル語で記載されているため、英語圏の人はあまり知りませんが、ポルトガル秘密警察をはじめとする西側諸国の諜報機関が相当程度、アフリカ諸国内部や地域機構あるいは解放運動に介入している様子が如実に分かる史料だったのです。こういうことを知らずに、「国際協力」「援助」の話をするのは、非常にまずいと感じています。今後の私の課題として、この文書を使って英語で本を書かなければならないだろう、と思っています。

このように、研究における今後の課題はいろいろありますが、ライフワークとしての私の研究は3つの段階に別れています。第1部は、既に終了しており、博士論文を基に出版した『モザンビーク解放闘争史 : 「統一」と「分裂」の起源を求めて』に集約されています。これはモザンビーク社会において分裂や暴力的紛争が生じた起源を、旧宗主国からの独立・解放運動期に求めてその時期の歴史を調査したものです。第2部として考えているのは、第1部で取り扱わなかった、1975年の独立以降から紛争が勃発し、紛争が終焉した1992年までの政治・歴史研究です。この期間には、共産主義の導入、農村の集団化、米ソの冷戦、大規模紛争、飢餓など、国内外において様々なことが起こりました。本当は、この部分の研究をするために研究の道に入ったのですが、研究を始めた当初は政治的な危険を孕んでいたため、この研究には着手できませんでした。結果的には、歴史に遡ったことが自分としては非常に良かったと思うものの、第2部に着手するには残念ながら、依然時期尚早な状態です。というのも、モザンビークは複数政党制になりましたが、選挙の度に、地域における分断状況が強くなっています。特に、反政府勢力の拠点となっている私の調査地においてインタビューを通じた調査を行うことは政治的な緊張を生み出すことになりかねないからです。第3部としては、既にお話しましたが、アフリカにおける1960年代から70年代にかけての政治的駆け引きと西欧世界の援助による介入がアフリカの地域間協力体制に与えた影響に関する研究です。

聞き手:研究の視点や問題意識が一貫しており、ライフワークとしてアフリカのテーマを追いかけるというエネルギーはすごいと思います。

舩田氏:うーん。おそらく、頑固なんです。本当は、アフリカの未来にこそ関心を持っています。だからこそ、未来に向けたエネルギーが満ちていた、しかし、その後の絶望につながる契機が詰まっていた60年代に関心があるのでしょう。その時代に生きていなかったことも、ある種の憧れにつながっているかもしれません。そのことによる不十分さはあるでしょう。しかし、私がしたいのは、あくまでも未来に向けての研究なのです。そして研究の視点としては、一般大衆のレベルと国家のレベルを結びつけることにチャレンジしようと考えてきました。どちらか一方だけでは、未来は開けないからです。ただし、アフリカ国家の歴史は浅いので、具体的には、アフリカの人々が住んでいる現在の社会がなぜこうなっているのかということを、人々のレベルから世界史のレベルまでつなげて、グローバルな社会の中に位置付けることを今までは中心に行ってきました。私は自分がアフリカ人ではないということをいつも自分に言い聞かせています。ですから、アフリカの中で居住する人々の動きを緻密に追うことは重要ですが、その人々の動きが世界の動きとどう関連しているのかという視点で研究しなければと常々思っています。

4. 聞き手:2008年はG8サミットやTICADが開催されますが、特にTICAD市民社会フォーラムでのNGO活動との関わりで、来年に向けて計画されていることや目標は何でしょうか。

舩田氏:そもそも私がTICAD市民社会フォーラムに関わることになったきっかけは、モザンビークで調査をしていた2000年2月に南部アフリカ地域で発生したサイクロンによってモザンビークが大洪水の被害を受けたことでした。現場では、決壊した川が洪水となってあふれ出し、川は一夜にしてまるで海のようになりました。BBCニュースを見ると、その「海」の中に木の上に登って人々が助けを求めているような状態でした。そのような状況であったにも関わらず、残念ながら日本のメディアは報道してくれなかったので、神戸の震災で一緒に汗を流した仲間に呼びかけて、「モザンビーク洪水被害者支援ネットワーク」というNGOを結成し、被害者の支援活動及び募金活動を行いました。その活動が終焉しつつあった頃、過去に日本政府によって食糧増産援助(2KR)で供与された農薬が洪水のため水につかっている状態が発見されました。2KRによる農薬供与は、紛争終結後のカンボジアで企画されましたが、市民の反対により回避されていました。しかし、2KRによる農薬供与は、アジアでの日本市民の強い監視を避ける形で、この時期以降アフリカへシフトしていきました。つまり、アジアで拒否された農薬をアフリカに「援助」として押し付けようとしたのです。たまたま、モザンビークで在庫農薬が発見されてしまったがために、この問題援助に関わることになりました。そこで、2002年に「食糧増産援助を問うネットワーク」を立ち上げて、2KRの実態を調査するとともに廃止を含めて政府にこの援助の見直しを訴えました。

その後、調査によってわかったことは、モザンビークの農薬の問題は氷山の一角にすぎず、援助に関する根本的な問題はより構造的なものだということでした。つまり、一つのスキームのみ、アフリカ一カ国の援助のみに改善を求めても、本当の意味では変わらないということが分かったのです。「援助の受け手」としての神戸での経験や、子供が小さい上に研究もしていたので日本にいるしかないという制約条件が、私がODAの問題に取り組む背景になったのかもしれません。そんなとき、TICADV(2003年秋)に参加して、アフリカの市民社会組織から「TICADVはアフリカのオーナーシップや市民社会を無視している。これについて、日本の市民社会としてどのように責任を感じているのか」と問われました。そこで、援助政策の計画・立案・実施・モニタリングのすべての過程で、アフリカの市民が参加できるような仕組みづくりの必要性を感じ、2004年にTICAD市民社会フォーラムを立ち上げました。

聞き手:TICAD IVに向けて、どういう視点で関わられるご予定でしょうか。

舩田氏:2008年に向けて、日本に対する世界とアフリカの期待は大きいです。残念ながら、アフリカや貧困に関わる人々にとって、今年のハイリゲンダムにおけるG8サミットはアフリカが議題の一つではありましたが、実質的な議論がほとんどなされなかったので、敗北だったと思います。一方、海外の人から見ると、来年の日本のサミットに関しては、直前にアフリカの首脳を招待して開催されるTICADにおける日本の対アフリカ支援への期待もあり、日本には勢いがあると思われています。アフリカ支援を促進しようとする世界の思惑として、2008年に実施される北海道でのG8サミットよりも、その直前に開催されるTICAD IVの場を活用して対アフリカ支援に関する新たな政策を打ち上げたいという強い意向を感じています。

一方、市民社会として日本政府のTICADへの意気込みを見た場合、特に、運営という観点から心細く感じています。というのも、外務省の中で、TICADを運営しているのは援助ではなく外交を専門とする地域課であり、援助を専門とする課との間で協調ではなく綱引きが行われていると感じているからです。この日本の組織的限界は、TICADの成否に大きな影響を与える可能性が高いです。市民社会としては、TICADへの市民による統一行動を構築し、アフリカ政策に市民の声が反映されるために、「TICAD IV・NGOネットワーク(TNネット*アフリカに関わる23のNGOによって構成)」を立ち上げました。したがって、個々の団体の活動の他に、NGOネットワークの事務局の活動も増えました。TICAD市民社会フォーラムとしては、TICADやG8サミットに向けて、日本人だけで頑張るのではなく、日本から日本の状況をアフリカに発信して、アフリカ市民社会が考える提案や声を日本政府に届けることが重要であると考えています。設立を支援した「アフリカ市民委員会(4月1日に発足)」が10月にTICAD IVに向けた提言書を作成して発表する予定です。

聞き手:TICADにおいては、毎回重要となるイシューが決められますが、来年の重要イシューは何であるべきだと思われますか。

舩田氏:日本のこれまでの重要課題、及び、アフリカ諸国からの要望を考えると、経済成長は最も重要な課題の一つとなるでしょう。しかしこれは、国家レベルの数字にこだわったものであってはなりません。アフリカの民衆が生活の質の改善を実感できる、そして格差が是正されるための成長でなくてはなりません。その他、今年のG8サミットからの流れを考えると、気候変動も入ってくるかもしれません。しかし、TICAD市民社会フォーラムとしては、これら全ての課題はそもそも貧困削減を達成するために行うことであり、環境問題もエネルギー問題も、貧困層における生活レベルの改善につながる視点を持って話されなければならないと思います。


 バックナンバー
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No.13 2007/11/21 亀井伸孝氏(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 研究員)
No.12 2007/11/9 鈴木裕之氏(国士舘大学 法学部 教授)
No.11 2007/9/4 若杉なおみ氏(早稲田大学大学院政治学研究科 
科学技術ジャーナリスト養成プログラム客員教授、医学博士)
No.10 2007/9/3 砂野幸稔氏(熊本県立大学 文学部 教授)
No.9   2007/7/12 舩田クラーセンさやか氏(東京外国語大学 専任講師/(特活)TICAD市民社会
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No.1  2005/11/25

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