研究者インタビュー

 


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研究者インタビュー No.11

話し手:

若杉なおみ 氏 (早稲田大学大学院政治学研究科 科学技術ジャーナリスト養成プログラム
客員教授、医学博士)
聞き手: 山田肖子、鈴木明日香
実施日: 2007年9月4日  16:20-18:50

 

1.聞き手:若杉先生がたどられたキャリアを教えてください。

若杉氏:私は小児科医として働き始めました。小児患者を診ていて、世の中にはメカニズムが解明されていない病気がまだたくさんあることを思い知り、基礎研究の大切さを感じるようになったのです。1982年35歳の時に3歳と5歳の子供を連れて、フランスへ留学し、パリのネッケル小児病院免疫科やパスツール研究所で免疫、感染症の研究の道に入りました。留学前の私は、家庭では子供を、病院では重症患者を抱え、勉強時間がなかなか作れず、焦燥感が募っていました。研究に没頭している同僚と自分の置かれている状況を比べ、自分になかなか自信が持てない時期でもありました。

それから1992年に帰国するまでの10年間のうちの8年間、(2年間は日本の大学にもどりましたから)、をフランスで過ごすわけですが、最初はカルチャーショックが多くありました。フランスでは男性が食料品・日用品の買い物をすることも、女性が出産後も仕事を続けることもごく当たり前とみなされていました。日本では第2子を出産した際、「どうして仕事を辞めないのか?」と問われているような有形無形の圧力を感じる状況だったのに対し、フランスでは「日本ではそのような時にどうして仕事を辞める必要があるのか?」と聞かれたのには驚きました。また、日本において女性は自分の意見を控えめにすることが美徳とされる傾向がありますが、フランスでは性別にかかわらず自分の意思をはっきりと主張することが必要でしたし、そのほうが魅力があるのだと言われました。こうした日本とフランスの状況の違いは私に一種のパラダイムシフトをひきおこし、この経験によって、自分の生きる場所、自分らしい生き方を見つけやすくなったのだと思います。

2.聞き手:フランスでの経験が、研究にジェンダー的視点をもたらすきっかけになったのでしょうか?

若杉氏:そうですね。でも直接的なきっかけは結婚です。理論からジェンダー研究に入っていく方もいれば、経験からジェンダーにかかわる問題に関心を寄せる人も多いと思います。私の場合も学生時代までは男女の差を特に意識せずに過ごしてきましたが、結婚してみると、家庭内において女性はサービスを提供する側、男性はサービスを受ける側に立つという図式が暗黙の形で組み込まれていると感じたわけです。女性は男性より小さく少し弱いというジェンダー概念はたとえば夫婦茶碗−−妻のお茶碗はちょっと小さめで赤、夫のお茶碗は少し大きめで青−−のようなものによく現れているわけですが、こうした男女差を夫婦の役割においても暗黙に求められているように思いました。そのことに気づいた時、自分の描くキャリアパスや自己実現したいと思うことと、女性は家庭において控えめにすべきという認識の狭間でバランスがとれなくなったのを感じました。おそらく多くの女性が同じ経験で悩むのではないでしょうか。性別によって役割の違いが求められるのはなぜかを考える一方で、フェミニスト的視点は排除したいと思う気持ちも正直ありました。ジェンダー問題に気づかない方が幸せだなと思ったほどです。

医学は近年、男女の生物学的性差を次第に明らかにしつつありますが、まずは人間という生物の普遍的部分を明らかにしようとしてきました。そのためもあってか、私は医学の基礎研究をはじめた時には、学問には男も女もない、と考えていたように思います。研究成果さえ出せば、男女の区別なく公平に評価されるはずである、性差別に異議申し立てをするフェミニズムに入らないでも、研究に専念することで、「差別されない女性」をめざすことはできる、という考え方ですね。このように考えて研究者をめざす女性も多いのではないでしょうか?しかし、実際の女性の人生に起こる出来事や研究者としてのキャリア形成の場では、ジェンダー差別ははっきりありますし、男女共に、個々の研究者は自らの内なるジェンダー概念から完全に自由ではないと言わざるを得ません。

例えば、成功した男性上司のもとで若い女性が部下としてつくというパターンは一般的であり、社会でも特に抵抗なく受け入れられるでしょう。しかし、女性上司と男性部下というパターンは、夫婦茶碗の例で言ったようなジェンダー概念にさからうパターンになるので、両者ともにストレスがかかり、難しさも出てくると言われています。

人文系の若い女性の研究者が、自分の発言に対して上司から、そんな発言は「10年早い」と言われた経験を語っていたことがあります。男性上司が男性部下にこのようなことを言うこともあるでしょうが、女性部下に対しては、「支配するのは男性である自分」という意識が強まるのだと思われます。

女性が成功すると、それを実力として正当には評価せずに、裏に何か事情があるのではないか、権力を持った男性への色仕掛けの結果なのではと勘ぐられることが多いのも事実です。

3. 研究者としてここまで続けてこられるのに相当なご苦労があったと存じますが、それでも諦めないでこられたのは、ご自身の中に自分のやるべき事は医療研究であるという確信があったのでしょうか?

若杉氏:研究は本当に面白いものだと思います。自分が好きでやっていることなので決して辞めようとは思いませんでしたが、毎日が楽で楽しいかと問われると、そんな事はありません。日々過酷です。特にフランスの研究生活の最後のころには、フランス人研究者の指導や夫との共同研究など、責任とストレスでうつ状態になり、朝起きてベッドから起き上がれなかったことも何度もあります。でも1年に1回ぐらい、真実をつかんだ、と思える瞬間、「だから自分は研究を続けているのだ」と確認できる瞬間があります。これが研究への推進力となり、大変でも続けるモチベーションになるのだと思います。

4. フランスへ行き医学の基礎研究をされてきた後にアフリカの保健医療に関わってこられたわけですが、医学の基礎研究とアフリカの現場で働くというのは、一見全く違うタイプの仕事のように見えます。キャリアの上でも、大きな方向転換となる決断だったのではないかと推察しますが、その転機はどのようにして訪れたのでしょうか?

若杉氏:私は12年間小児科医として診療行為に従事し、その後フランスへ渡り、10年間を免疫学や感染症の研究に費やしました。日本に帰国して製薬会社の研究所に勤務し始めましたが、その頃、同じ生命科学研究分野の研究者である夫との離婚となり、父の介護、子どもの日本への不適応などもあって、基礎研究から離れなければならない時期が来たなと感じました。ちょうどその頃、日本で国境なき医師団が設立されたのですぐに登録しに行きました。国境なき医師団の存在はフランスにいた頃から認識しており、彼らの活動をとても尊敬していましたが、フランスでは基礎研究に忙しかったので、それを横目でみるだけで関わることはありませんでした。

そして1995年に淡路阪神大震災が起こりました。震災の被害状況をテレビで目の当たりにし、「これは行かなくては」と本能的に行動しました。知らない場所で自分に何ができるか分からないと思いつつも、開いている診療所や医療器具があれば診療行為をすればいい、それが無理なら炊き出し役、もしくはフランス語と英語を活かした通訳をしよう、と自分が役に立てるパターンをいくつか考え神戸に向かいました。

5. その頃には、基礎研究よりも医学の知識をもって社会貢献をしたいというお気持ちが強くあったのでしょうか。

若杉氏:基礎研究の重要性は常に、今でも、感じていますが、自分を活かすには別の方向も模索しようと考えていたと思います。 私の父が新聞記者だったいうこともあり、昔から世間の動きに敏感で、中でも世の中にある「格差」を考えていました。中学生の時にマルクスなんかを読んでいました。学生の頃はベトナム戦争に反対する学生運動に参加し、世の中を変えていこうと一生懸命でした。学生運動に関わったのちに職業として医療の世界に入っていったわけですが、医療の状況を見ただけでも南北格差がやはり存在し、何とかできないかと、機会あるごとに考えていました。学生運動のときに解消をめざしたのは社会の不公正、社会格差だったわけですが、その中の健康格差だけでも何とかできないかと考えて今やっているのが国際医療協力だと思っています。同じ病気にかかっても医療の不整備や貧困によって辿る運命が違うことをどうしたら是正できるのか?先進国ではまず死ぬことはない麻疹で、アフリカでは死に至るこども達がたくさんいます。そんなことから次第に、医療分野で国際協力を実践したいと思うようになっていました。留学して異文化との接触にも慣れ、フランス語・英語が話せるようになっていたし、子どもの病気や感染症が多い途上国での仕事のためには小児科学と免疫学をやった自分の能力は生かせるだろう、と、その時もう48歳になっていたのですが、「きっとできるだろう」と自分の背中を押すことができました。

6. 最近の若い人達は、初めから国際協力を目指す人が多く、また彼らの動機が「アフリカが貧しくて可哀想だから」と施しの視点であることもよく耳にします。しかし、派遣された途上国の現場で複雑に絡みあった物事を理解するには、相対的に物事を判断する力や、自分の価値観が確立されている方がバイアスが入らないのではないかと思います。そういった意味でも、いきなり途上国で問題解決に臨む前に、同じ問題を、例えば日本で取り組んだ経験がある方が、より的確な判断に繋がるのではないでしょうか。

若杉氏:その通りだとおもいます。私のWHOの友人などは感情的な動機だけで行動を起こすことをあまり良しとしませんが、私はこの共感を持つということはとても重要だと思います。ブレインもハートも共に必要なのです。ただ、そうした共感・感情から始まった行動を持続させ、育てていくためには別の要素も必要になってくるのは事実です。ですから、国際医療協力をやりたいからといって、焦っていきなり現場へ行かなくてもいいと思います。張り切って始めた人ほど、続かないという例もあります。

医者の仕事で言えば、シュバイツァーのように白衣を着て聴診器と注射を持ってアフリカへ行き、医療を施して人を助けるという目標は、原点として間違いではありません。確かに現地に行って、1人でも2人でも人助けができればその喜びはあります。しかし、アフリカが抱える問題の根本的な解決には繋がっていません。人々の健康を阻害している、医療の質的量的不備や社会の状況が存在し、どうしたらその状況が改善できるかを突き詰めていこうとすると、白衣を着て聴診器を持ってという姿だけではやっていけません。実際、JICAのプロジェクトで現地に入って私がやることと言えば、援助計画の策定、先方政府との交渉などの方が中心で、医療の実情のみならず政治経済状況の把握や、説得、駆け引き、粘り、忍耐などなどの能力が要求される仕事です。人を助けるには、そういう大きな枠組みでの机上の作業も必要となってくるのです。

7. 公衆衛生の分野で国際協力に関わっている人たちの中には、医師という経験を持たない人も多いと思いますが、その中で、医師だからこそ貢献できることがあると感じていらっしゃいますか?

若杉氏:医療の専門性を持つからこそ貢献できることもあります。医療の専門性を持つ人たちは、ある種の職業意識が身体にすり込まれているので、目の前で困っている人がいれば治療を施すでしょう。人間の安全保障というお題目を掲げなくても、職業上、医者がしなければならないことが何であるかは自分にとっては明確です。やるべきことが見えているという点では、大変なことがあってもそれに耐えうるだけの動機を持ち続けられるという点が医療の専門性を持つかどうかで違ってくるかもしれません。しかし、途上国の公衆衛生改善には政策の方がよっぽど大事です。そのためにも、公衆衛生の領域を医者だけの世界にさせたくないと思っています。医療に携わらない人達にもこの分野で大いに活躍してもらいたいです。

8. アフリカのエイズ問題についてお伺いしたいのですが、エイズ問題に関わられるようになったのは、いつ頃からでしょうか?JICAでの仕事を通じてからでしょうか?

若杉氏:エイズはフランスにいた1982年頃から研究しており、フランスから帰国して製薬会社にいた頃も、抗エイズ薬の候補物質を見つけ特許請願されたものもあります。今でこそ「エイズ」は大きく取り扱われていますが、私のエイズとの関わりは基礎研究時代からです。

JICAを通じては、ザンビアでコミュニティの力を活用してエイズ治療を推進させるプログラムにかなり取り組みました。また研究費を使って、マリ、マダガスカル、コートジボワールなどで、エイズの母子感染予防への協力や、「エイズの女性化」に関連する社会的文化的要因に関する調査を行なっています。

現在、エイズ対策には大型の資金援助が行なわれるようになり、医療関係者以外の間でも議論される病気になりました。Exceptionalismと言われるほど、エイズを特別扱いしすぎているのではないか、という批判的な声すらありますが、UNAIDSのトップ、Dr. Piotはそれでいいのだと言っていました。もともとエイズは大きな問題であるにも関わらず、辺縁的扱いを受けてきました。それが今では、エイズ問題に政治的要素が絡むようになり、エイズと言えば研究費がもらえるようになったので、人々がこの感染症の周りに集まってきてくれているのです。これはエイズ対策やアフリカにとっての大きなチャンスだと捉えないといけないと思っています。

9. アフリカにおけるエイズ問題は、今、おっしゃられたように、一つの感染症という病気という枠を超え、多角的な関わりがでてきていますが、若杉先生は現状をどのように受け止めていらっしゃいますか?

若杉氏:アフリカのエイズは貧困で資金が足りないために、対策がほとんど取られず、黙視されてきました。しかしこれまで辺縁的扱いだったところに、現在、膨大なお金が投入されてきているので、これは開発を破壊するようなものである、と批判する人もいます。確かに、持続可能な開発を模索しているところに、緊急支援のような扱いで、膨大なお金を投入することは問題だという議論はあります。外部から来るお金が官僚の研修費用に流れてしまったり、また、エイズ対策のために作られた組織の幹部に高額な給与が支払われたりと、その使途に問題はつきまといます。また、お金があっても、人がいない、施設がない、資金の管理能力がないという状況が生まれています。ですが、今まで何もできなかったところにお金が投入されるチャンスが巡ってきたのですから、この際、できるだけエイズ対策に充てるべきです。いっそのこと、エイズ患者の世話をする人たちの給与や、雇用創出の場をつくる費用に充当するのがいいと私は思います。アフリカでは出稼ぎ、ブレインドレインで能力ある働き手が減り、エイズによる死亡でも生産年齢の労働力が減り、これがせっかくエイズへの国際支援が始まっている時に深刻な課題となっています。

アフリカの人の中には、「外国から専門家を送っていただくのはもう結構です。お金をくれれば、国内から流出した人たちを呼び戻すから」と言う人もいます。それはある意味、正しい判断だと思います。給与体系を改善し、副業をせず、給与だけで生活できる人たちを増やしていかなければなりません。職が少ないところに援助のお金が流れ込むため、援助する側は少ない優秀な人材を獲得しようと、謝金の吊り上げ競争をするようになっています。ドル束で人を引き抜くという状況も起きています。援助機関からの謝金ではなく、その政府が人々の生活給をどれだけ多くの人に安定的に出せるようにしていけるのか、援助側はそのためにはどうしたらよいのか、を考えることが重要です。

アフリカのエイズ患者に高価な薬を援助するのは、医療インフラがないので有効に使われず、どぶに薬を棄てるようなものだ、といったような悲観論が先進国の一部に長い間ありました。アフリカの人たちは自分の身内や友人にどんどん感染者が出て、決して悲観などしていられない状況なのに先進国側がさきに悲観するのは問題です。エイズの現状を直視せず、看過、悲観したことはアフリカのエイズ蔓延の一要因にもなっていたと思います。

10. エイズは不道徳な行為の結果であるのでエイズ患者を社会から排除しようとする姿勢もあると聞きますが、実際はどうなのでしょうか?

若杉氏:おっしゃる通り、社会的差別は強烈にあります。ですが、同時にエイズという病気に対する共有感のようなものも生まれています。彼岸の問題ではなく此岸の問題である、という感覚でしょうか。これはアフリカ社会の不思議なところで、エイズを性という悪行の結果の罰とみなし、感染したのは自業自得だというレッテルを貼る一方で、病気や災害と背中合わせに暮らしているためか、エイズ患者の苦境に共感を覚え、理由を問わず助ける相互扶助の精神があります。明日死ぬかもしれないというリスクに常にさらされている人達だからこそ、感覚的に自分もそういうリスクを背負っていることを知り、感染する恐怖を超えて助ける行為に出るのだと思います。

11. アフリカ東南部の農村地方において感染率が高いと聞きますが、一般生活にもその危機は迫っていると感じていますか?

若杉氏:感じています。エイズはウィルスが身体に入ってから10〜15年間は無症状です。検査を受けない限り、感染しているかどうか分かりません。薬は症状が出てから使います。無症状期間中は薬を使いません。ある程度免疫力が低下してから使うようにして薬の使用期間をできるだけ短くすることが、薬剤耐性を出さないために重要だからです。しかし、それは感染してから10年も経過した後のことです。エイズが可視化されるまでに長い時間がかかります。

エイズ患者第1号は1982年で、90年代に入ってからは、役人、医師、看護婦、そして身近な親戚にも次々にエイズ症状を呈した患者や死亡者が出てくるようになりました。そこで初めて、アフリカの人たちのエイズに対する意識も変わってきました。

今は、Community Empowerment、Knowledge’s power が会議でも言われるようになり、地域の意識も変わってきています。国の対策に頼るだけでなく、自分たちで地域力をつけようという運動も高まり、それを助けるプログラムもあります。

政府レベルでもエイズ問題に対する態度は変わってきました。エイズが社会問題化し始めた2000年の国際エイズ会議で、南アフリカ共和国のムベキ大統領が「エイズはHIVウィルスによる問題ではない」と言ったように、当初はエイズを深刻な問題と認めませんでした。しかし、2003年ごろになって国際社会がエイズ対策のイニシアティブを打ち出すようになり、アフリカ政府もエイズの問題の大きさ、緊急性に気づき、アフリカ各国で保健予算の15%をエイズに充当させるようになりました。

また、Global Fund(世界エイズ結核マラリア対策基金)のような国際支援組織からも、今までの保健セクター事業では受けたことがないほどの金額がエイズ対策支援金として入ってくるようになりました。そうした資金流入の変化に対応して、受け皿も保健省だけでなく、教育省、財務省など、省庁を超えたメカニズムが必要とされています。対策も保健政策だけでなく、教育や労働政策にも結びつけなければなりません。

しかし、入ってくる金額が大きいだけに、省庁同士の争いの種にもなります。エイズ費用を予防のために使うのであれば、キャンペーンやコンドームの配布ということでいいのかもしれませんが、治療となると医療的要素が強くなるので、保健省が担当することになります。お金が大きければそれだけ利権争いに発展する可能性が高くなります。そうした問題に、他者としての私たちはどう対応すべきなのか、日常的に悩まされているのが実情です。

12. アフリカの医療に関わられて、ジェンダーの話も出てくると思います。女性と医療の問題は切り離せないと思いますが、どのようなご意見をお持ちですか?

若杉氏:そうですね。私の関心テーマの一つになっていることに、「医学が女性をどう見てきたか、またジェンダー(性差)は医学にどのように取り込まれていくのか?」ということがあります。医学では、解剖図に始まり、薬の量、病気のメカニズム、臨床データなどは男性がモデルになっている事が多いです。そのため、女性特有の問題はあまり考えられてこなかったという現状があります。最近でこそ、「性差医療」といって、同じ病気でも男女で症状や治療方法が異なることを主張する人たちがでてきました。生物学的性差はジェンダー研究の中でも無視されるのではなくて、取り込まれ正確に踏まえられるべきものだろうと思います。

生物学的な性差はあります。そして個体差はもっとあります。しかしこの個体差がかなり存在すると同時に、生物としての人間には大きな普遍共通部分があります。男女の差や、黒人白人の差は、生物学的にはちょっとした違いであり、さらにその間は厳然とわけられているのではなく、連続性のあるものであることも分かっています。ですが、その差を人間は二項対立的に、社会的に拡大して扱ってきたわけです。

生物学が明らかにしてきた性差を社会的・文化的性差としてのジェンダー議論がどう組み入れているのか、というのが私の関心事項です。

健康に生きる権利と機会は、社会的なジェンダー状況に影響を受けるのか、受けるのだからその点に着目しよう、と最近言われてきているわけですが、アフリカでは、妊産婦死亡率など女性の健康指標が極端に悪いことからみてもその傾向は顕著にあります。疾病に罹りやすい社会的脆弱性、経済的社会的に医療にアクセスできる機会が少ないなど、女性の健康の重要性が後回しにされている傾向があります。

13. 男性エイズ患者と女性エイズ患者では、その状況は異なりますか?

若杉氏:異なります。エイズが発生した初期の頃の広がり方というのは、セックスワーカーと男性という構図でした。女性のセックスワーカーがエイズの元凶と言われました。次の段階ではエイズに感染した男性が家庭にエイズを持ち込みます。しかし、一夫多妻制という事もあり、売春にも多様な形態があるので、家庭内外というのはあくまでも一夫一婦性的なみかたです。

こうして次第に、男性中心の感染症だったエイズが、自分の夫以外の人と性交渉をしない女性にもひろまって行ったのがエイズの歴史です。セックスワーカーを中心に男性にひろまったので、女性はエイズの巣であるかのように言われ、エイズの女性は差別を受ける対象となり、石で殴られて殺されたという事実もあります。

「エイズの女性化」とは、このように男性患者が圧倒的に多かったエイズが、女性に蔓延してきていることをさしますが、感染に弱い粘膜部分が多いなどの生物学的脆弱性、そして、望まない性行為を拒否しきれない女性の社会的文化的脆弱性が背景となっています。

14. FGM(女性性器切除)についての論文も書かれていますが、社会的な女性の脆弱性と、FGMのつながりはあるのでしょうか?

若杉氏:女性の脆弱性とFGMをつなげてしまうのは、少し単純化しすぎた構図です。成人儀礼としての割礼の歴史は古く、男性にも女性にも行なう、ノンジェンダーでシンメトリカルなものあったようです。おそらくFGMは、健康希求から始まったと思われます。性病を避け、無事に出産ができるようにという希求から始まり、そこに、後年ジェンダー的要素、つまり女性支配や女性の性管理という性格が加わってきたと考えられます。

女性の健康にこれほど有害な慣習が、なぜこれほど長くこれほど多くの地域で、しかも女性たちが自ら進んで行なうかのように見えているのはなぜなのか、よく考慮する必要があります。

FGMが必ずしも男性側から強制させられているとも限りません。自分の娘にFGMを受けさせたくないという父親に対し、妻の女性親族がFGMを受けさせろと迫ったというソマリアの例などもありますから。それだけ、女性の中でもFGMを行うべき正しい慣習と見なし、社会の中で女性の地位を維持するために必要な行為と理解されているのです。

更に、ケニアなどでは、宗主国対植民地の構図において、民族の独立運動の際に女性の割礼が民族独自の文化の象徴として強調され、利用されもしたという歴史もあります。

15. FGMはアフリカ固有の慣習でしょうか?

若杉氏:中世ヨーロッパでもFGMは強い女性や同性愛への懲罰として、またヒステリーの「治療」として行われていたこと、また現在生きている1億数千万人の女性に対して行なわれた慣習であること、部族のアイデンティティとしてまた女性の価値を高めるものと信じられて、欧米に留学しているようなアフリカ女性でも切除しに帰国するなどといったこと、などを考えると、FGMを何かアフリカ特有の、未開の野蛮な部族が未だに行なっている慣習といったようなイメージで捉えることは全く的を得ていません。インドネシアでは王族など、高貴な身分の人が女性の性器切除を慣習としていた、という話もあります。

16. FGMは女性の出産時のリスクや感染症などの病気の原因になりやすいと言われますが、衛生・医療の観点からFGMを止めたほうがいいという人々がいる一方、外から来た人たちが社会的価値にまで干渉していいのかという反論もあります。そこはどのようにお考えでしょうか?

若杉氏:たとえばドメスティックバイオレンスは、夫婦間のもめごとだ、他人からの干渉はすべきでないとされて、警察はドアの中に踏み込まずに、隣家には泣き声が聞こえていたのにも関わらず殺されるのを防げなかった、それでいいのだろうか、ということを私たちに考えさせるようになってきました。それと似ていると思います。中国の纏足も実態が世界に知られるところとなり、外部からの批判が始まって、それによってその続いていた歴史の長さに比較したら驚くほど早く瓦解したと言われています。

文化相対論からみると、どの民族が持つ文化や慣習も等しく尊重されるべきなのですが、果たしてこれが文化と呼べるのか、というところにまず疑問があります。文化などとは呼べない、これは女性の健康と人権を侵害する性暴力である、と言って廃絶運動のきっかけを作ったのがアリスウォーカーなのですが、私は、文化と呼んでもいいのでしょう、しかし文化だったらいいのか、また誰のための文化なのだろうか、そもそも男性ための文化なのではないか、というように考えます。

フランスでは文化人類学者が初期のFGM廃絶運動を烈しく批判したし、日本のFGM廃絶支援NGOも、これは他人の文化への介入であり「自文化中心主義」に無自覚な介入暴力であるといって批判されたことがあります。しかし、介入も、健康という普遍的目的のためにやっているわけです。普遍の領域と個の領域は同時に存在する、と先ほどものべましたが、それは、どちらか片方が優先されるのではありません。個別文化を尊重しつつも、健康という普遍的であるべき価値が侵害される時、介入することは人間として必要な場合がある、と私は考えます。

17. 最後に、若い人へのメッセージをお願いします。

若杉氏:特に若い人たちに伝えたいことですけれども、ありきたりの言葉で言えば、「苦労は買ってでもしろ。やるかやらないか迷ったら、やれ!」ということですね。これは、自分の経験からも強く感じることなのですが、子育て、研究、医師としての仕事、全部やる中で、もうこれ以上できないと思ったことは何度もありましたが、結局は何とかなってきました。ちょうどそのような大変な時期に、仕事でいいポジションのオファーがあったのに、「私にはとてもできません」と自ら諦めたことが一度ありますが、それはもったいな事だったと思います。ある役職についた人が、はじめは仕事に苦労して役職に不釣り合いに見えていても、やっていくうちに風格ができて、様になっていくのを見ていると、やはり、少々自信がなくても、苦労しそうな話だなと思っても、勇気を出してやってみるものだと思います。

今日は女性の話になったので、特に女性に言いたいのですが、人間、やればなんとかなります。「これを終えてからこれ」などと順番付けする必要はありません。人間である限り、能力に差はないと考えています。最近の脳科学によれば、人間は脳の1%しか使っておらず、99%は使われていないらしいではないですか。それだけ余力があるということです。確かに、労働状況が整っていないということがあるかもしれませんが、そうならば、それを声を大にして抗議すればいいのです。もっと変える力を持つべきです。

アフリカの人たちを見ると、彼らは常に「火事場の馬鹿力」を出していると思います。彼らが日常生活の中でさらされているリスクは、私達とはくらべものにならないほど大きいけれども、彼らはそれでもにっこりと笑うことができる。本人達がどう自覚しているかは分かりませんが、最大限の力を出している、もしくは出さざるを得ない状況にあると思います。これは、豊かな国に住んでいては気づくことのできない力なのかもしれません。

日本社会の中では豊富な選択肢が与えられているのですから幸せです。そのために迷いもあるのでしょうが、苦労してでも挑戦すべきだと思います。

 

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