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研究者インタビュー No.12

話し手:

鈴木裕之 氏 (国士舘大学 法学部 教授)
聞き手: 山田肖子、鈴木明日香
実施日: 2007年11月6日  10:00-11:30

 

1.聞き手:鈴木先生が講義されているクラスのシラバスをウェブサイトで拝見しましたが、「音楽から世界を考える」というユニークなアプローチをとられていますね。

鈴木氏:私が教えている学生に、アフリカ地域研究にフォーカスしている大学院生はいません。なので、アフリカの社会についての詳細な講義(父系制、母系制社会、牧畜民や狩猟民など)をしても学生はなかなか興味を持ってくれません。しかし、黒人音楽、ラップ、レゲエといった話となると、彼らは興味を持ってくれます。こうした音楽の起源はアフリカにあるので、アフリカの音楽から世界の文化を読み解いていくようにしています。

ブルース、ジャズ、ゴスペルは、アフリカの人達が奴隷貿易を通じて新世界へ連れて行かれ、彼らの音楽が白人音楽と交じって生まれました。また、白人が黒人音楽を真似て出来上がった音楽がロックです。レゲエも、ジャマイカのラスタファリ運動というアフリカ回帰運動(ブラックナショナリズム)の中から生まれました。こうやって音楽のルーツを一つ一つ説明していくと、学生も自分の興味分野と重ねあわせることができ、講義内容を身近な情報として聞いてくれます。講義中には市販のレゲエのビデオや、アフリカで行った自分の結婚式のビデオなど映像を多用し、彼らがどういうダンスをしているかを紹介しています。

2.聞き手:講義を終えた後では、学生のアフリカに対する関心度が変わっていると感じることはありますか?

鈴木氏:大きな変化というのは感じません。ですが、音楽や映像を通して異文化交流のあり方を多角的にみせていることも手伝って、「実際に異文化を体験しなさい」と言うと説得力があり、アフリカとはいかなくても、本当に海外へ行ってくる学生は結構います。

3.聞き手:先生ご自身はなぜ音楽から人類学を研究されたのでしょうか?昔から音楽がお好きだったのですか?

鈴木氏:私の場合は音楽から入りました。もともとロックが大好きで、特に我々世代の小・中・高校時代はロックが流行っていました。中学や高校では、洋楽を聴くのは進んだ子、日本の歌謡曲を聴くのは普通の子という雰囲気がありました。文学も同じで、外国文学のほうが日本文学より高尚な感じがしたものです。ロックを聴きながらスタインベック、ドストエフスキー、ヘミングウェイなどの翻訳本を読むという組み合わせがオシャレとされていた時代なのです。高校時代に住んでいた場所が田舎でのんびりした雰囲気だったこともあり、私も好きなロック・ギターを練習する他は、外国文学の本を読みふけっていました。

大学に入ってからもやっぱり音楽中心の生活で、ロックバンドのサークルに入りました。その時にロックのルーツが黒人音楽にある事を知り、黒人音楽を聴くようになりました。中でもブルースに興味をもち、アメリカの黒人音楽を聴いていました。

音楽以外では、旅行が好きで、アルバイトでお金を貯めてはインドへ1ヶ月から2ヶ月かけて貧乏旅行するというのを繰り返していました。ところがある時、A型肝炎にかかってしまい、日本に帰ってきてから1ヶ月ほど入院しました。A型肝炎は、慢性化してしまうB型肝炎と違って完治する病気で、1度患えば抗体ができて一生かからない病気です。なので、10月ぐらいに入院した翌年の1月にまたインドへ行こうとしたら、医者に止められてしまいました。旅行にいくなら衛生面で不安の少ない先進国へ行くようにと勧められ、インドの替わりにヨーロッパへいくことになりました。それが、大学の3年生を終えた1986年の2月頃でした。

まずはパリに入り、相変わらず貧乏旅行だったので安宿の屋根裏部屋に泊っていました。すると、そこに日本人のカメラマンが私に会いにきました。その方は、ザイール(現在のコンゴ民主共和国)のリンガラ・ポップスという音楽を追いかけて1年ぐらいザイールで取材をされている方で、たまたま、パリの安宿に日本人が泊っているという情報を聞きつけて、遊びにきたのでした。彼は、武蔵野市が文化事業の一貫として招待したザイールの有名な音楽家、パパ・ウェンバのザイールからパリ、日本への移動についてきていたのです。

当時、私はアフリカのことを全く知らなかったのですが、彼がリンガラ・ポップスなどを説明してくれ、更に、数日後にフランス郊外で開催されたパパ・ウェンバのコンサートに私を連れていってくれました。彼はリンガラ語を流暢に使いこなし、パパ・ウェンバに私を紹介してくれ、通訳までしてくれました。その時にパパウェンガが、黒人音楽に興味があるならザイールに遊びにおいでと誘ってくれたのをきっかけに、それ以来、ザイールた。彼はリンガル相変わらず貧乏旅行だったのでのへ行きたいと想いを募らせるようになりました。しかし、お金が無かったので、当時履修していたアフリカ地域社会論という授業の先生に、どうしたらタダでザイールへ行けるのかと相談しました。するとその先生は文化人類学の専門家でもあったため、大学院で文化人類学を専攻すれば奨学金がもらえて行けると言ったので、私は勧められたとおり大学院へ進学しました。

4.聞き手:いろんな人達との出会いが人類学の研究に導いていったのですね。

鈴木氏:でも、人類学の先生が教えてくれたことは嘘でした!研究業績のない修士過程の学生に奨学金はまわってきません。結局、借金をしてザイールへ行きました。

ザイールへは2ヶ月ほど行き、それをもとに修士論文を書きました。地方からでてきた人達がグループを作り、それぞれの伝統音楽を演奏していることに注目して、首都キンサシャへの移住者の伝統音楽にみる音楽とエスニシティの関係性についての論文でした。それと同時に、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所が発行している小冊子用に4ページぐらいのエッセイも書きました。そうしたら、そのエッセイをたまたま目にした当時の外務省アフリカ第1課課長に、「コートジボワールで専門調査員のポストを作ったので、行ってくれないか?」と頼まれたのです。ザイールもコートジボワールも同じフランス語圏で、他に行く人が見つからなかったこともあり、私に声がかかったようでした。修士2年の時で、私自身はキンサシャへの興味が強く、コートジボワールにそれほど惹かれてはいなかったのですが、タダで行けるという魅力に負け、コートジボワールの首都アビジャンにある日本大使館に赴任しました。それからはアビジャンの文化にどっぷり浸かっていきました。

アビジャンでは、職場となる大使館から歩いて5分のところに住んでいましたが、その往復5分の道のりで出会う靴磨きや雑誌を売っているストリートボーイ達と仲良くなり、週末など大使館の人達よりも彼らとよく遊ぶようになっていきました。彼らと交流を深めていくうちに、ストリート文化の面白さに気づいたのです。

5.聞き手:ストリートボーイとのコミュニケーションは難しくなかったのでしょうか?スラングなど、言葉も独特だとのことですが、閉鎖的なグループではないのですか?

鈴木氏:言葉に関しては、当時の私のフランス語力はまだまだ未熟だったので、フランス語を勉強しつつ、ストリート文化で使われているスラングも彼らから教えてもらっていました。友達になるのはそれほど難しくありませんでした。相手を尊重してアプローチしていけば、仲間に入れてもらえます。彼ら自身も外部の人達との付き合い方をよく心得ており、信頼関係が構築されれば深い付き合いができます。もちろん、どこまで親密になるかは人によって異なります。

例えば、海外のジャーナリストが取材にやってきて1週間一緒に過ごすことになれば、表面上はそれなりに付き合うでしょうが、深い付き合いにはならないでしょう。また、ストリートチルドレン救済のためにやってくる海外からのNGOもよく見かけますが、ストリートボーイにしてみれば、いい子にしていれば何かもらえる事を知っているので、ちょっとした手伝いをし、もらうだけもらいます。でも彼らが本音を見せることはほとんどありません。NGOが一定の活動期間が過ぎれば自国へ帰っていくことを承知しているのです。ストリートボーイ達のやり方を見ていると、非常に賢く立ちまわっていることがわかります。彼らは機会がないから教育はあまり受けていませんが、知的水準が高い人はたくさんいます。

6聞き手:彼らがストリートボーイから卒業して大人の社会の一員になっていくということはないのでしょうか?

鈴木氏:みなが職に就くチャンスを探していて、タクシーの運転手などの定職につくことができた人はストリートボーイのグループから外れていきます。他は、田舎に帰る人、ブラブラしている人、犯罪で刑務所に入る人など、様々です。40歳頃までストリート生活を続けている人達もいますが、彼らは身体に負担がかかっている分病気にかかりやすくなり、長生きする可能性が低くなります。ストリートで歳をとっていった人達は、若者のようにグループを構成して一緒に時を過ごすことをせず、一人一人、失業者、浮浪者となって生きていきます。歳をとれば体力面において若者についていけず、仕事のタイプも若い人達とは異なってきます。

ストリートボーイは特にメンバー制でもなく、その場に居合わせた人達が仲間意識をもち、お互いの縄張りを尊重しながら生きられるよう、緩やかなネットワークで結ばれています。そのどの部分にも属せないとなると、路上生活者になるしかありません。

7.聞き手:アビジャンで暮らしていらっしゃる時は幅広く色々な方々と出会う機会があったと思いますが、ストリートボーイの人達と一緒に遊ぶようになったのは居心地が良かったからなのでしょうか?

鈴木氏:居心地は良かったと思います。当時、自分は20代前半から半ばぐらいで、ちょうどストリートボーイの中堅どころと同じぐらいの世代でした。10代前半から30代過ぎがストリートボーイの年齢層です。ストリートボーイと呼ばれる彼らと一緒にいると、新しい発見の連続でした。大使館勤務が終わり帰国してからも、講談社の野間奨学金をもらって2年ほどアビジャンでの調査をつづけ、現在の職場である国士舘大学に就職してからも、春休みや夏休みにはアビジャンへ調査に出向いていたので、20代から30代前半ぐらいまで、ずっと彼らとつきあってきました。

2000年にアビジャンのストリート文化について調査報告をまとめてからは、ギニアの伝統音楽の担い手であるグリオの調査を始めました。私は音楽を常に中心に置き、そこから見えてくるものを調査していましたので、ストリートボーイたちの文化を調査した後は、まったく別の音楽について調査したかったのです。

一緒にいたストリートボーイたちの世代交代も進み、今では彼らの話す言葉も分からなくなってきています。ストリートでは変化が早いので、23年経つと、知っている人の数も減ってきますし、彼らの使うスラングも分からないことが多くなります。そうなると、短期間の調査では彼らの世界を理解することが難しくなってきます。常に一緒に行動していれば変化を読み取る事ができますが、時々訪れるだけではそれも不可能です。私も時代とともにストリートボーイの世代から卒業せざるを得ないのでしょう。

また、最近は、2000年代に入ってから続いた政情不安の影響で、ストリートボーイであることを露骨に主張する傾向は低下しています。ストリートボーイは治安を乱す元凶として、軍事政府により厳しく弾圧された時期がありましたから。

8.聞き手:コートジボアールの代表的なレゲエ・ミュージシャンの歌詞にこめられる政治的メッセージと、それを歌うストリートの若者の文化表現についても研究しておられます。軍事政権下ではストリートボーイであることを彼らがあまり主張しなくなったとのことですが、政治的な緊張が高まると、アルファ・ブロンディのように音楽の歌詞に政治的意味を込めることもなくなるのでしょうか?

鈴木氏:いえ、音楽のレベルでは政治に向けたメッセージをこめることはあります。ただ、ストリートのファッションやダンスを楽しむことはなくなってきています。民族間の緊張も高まっているので、冗談を言って楽しめる雰囲気ではないからでしょう。また、有名なストリートボーイのリーダーが殺されたこともあり、彼らの自己主張はおとなしめです。言ってみれば、彼らはこぼれ銭で生きているグループなので、国が安定し経済的に豊かで、民族間のゆとりがないと、音楽やダンスによって表現されるストリート文化は停滞してきます。私が調査した1990年代頃が、ストリートボーイの最後の黄金時代と言えるでしょう。しかし近年では、ブルキナファソ、マリ、ギニアあたりで独自のポップカルチャーが育ち始めています。

9.聞き手:ギニアでも調査をされているとのことですが、鈴木先生が書かれた論文の中で、初代大統領セク・トゥレが、芸術を使って国家建設に役立てようという政策を行っていたことを初めて知りました。

鈴木氏ギニアは独立当時、識字率が低く、字を読まない人達が多くいたので、彼らが伝統的に慣れていた音楽、ダンスを使いながらプロパガンダを広めていったのです。ギニアはアフリカの中でも経済的に出遅れてしまっている国だけに学校教育のレベルが低いのですが、それに反比例するように音楽文化が一番強いのです。

10. 聞き手:最近作られている音楽は、ギニアの伝統音楽とうまく融合されたものになっているのでしょうか?

鈴木氏:現在流行している歌と、セク・トゥレ時代の音楽との接点はほとんどありません。セク・トゥレが奨励したような、ナショナリズムを高揚させるための伝統音楽はもう流行りません。かつてのように、ナショナリズムをもって国が発展するとは誰も信じていないからです。大統領や政府高官だけがお金持ちになっていき、国は豊かにならないという悲観論が広がっており、そうした現状を批判するメッセージをポップスの歌に込めるようになっています。また、伝統音楽の継承者であるグリオ(伝統的な語り部)たちも、ナショナリズムを歌うよりは、大統領や権力者を称える歌を歌ってお金をもうけるようになりました。音楽は国のためではなく、個人の喜びのためのものになってきています。

また若者の間ではレゲエやヒップホップなどのポップスが主流で、これらの音楽が若者のポップカルチャーに深く結びついてきています。つまり、彼らの生活苦に対する抵抗として、政治が悪い、国が悪い、白人が悪い、ヨーロッパが悪い、という歌詞が多くなっています。これは、抵抗文化のファッションとしての表現スタイルと言えるのではないでしょうか。ジャマイカの貧しい人達が歌っていたレゲエは、もともとアフリカ回帰運動から生まれたものですが、同じような厳しい生活環境下に置かれているギニアに逆輸入され、若者文化に取りいれられてきました。ラップも同じような抵抗スタイルをもっています。しかし、こうした音楽表現は、ファッションであって、本当の政治的動因までには至らないと思います。

11.聞き手:ギニアでは若者音楽と、伝統音楽と二極化しているのですか?伝統音楽が社会的に果たしていた役割は昔とは変わってきているのでしょうか?

鈴木氏:自分たちの伝統音楽を現代楽器を使って演奏していくパターンや、海外から輸入されてきた音楽を伝統的な楽器や演奏法を使って演奏していくパターンなど、やり方はそれぞれです。 グリオたちはもともとアーティストなので、自分たちの楽器、ヨーロッパの楽器を自在に使ってポップスに発展させていっています。

伝統音楽の分野でアーティストの地位を確立してきた人も、同時にポップスを歌ったりするようになりました。ポップスはショービジネスですので、カセットやCDを販売し、稼いでいきます。しかし、どんな歌においても、なんらかのメッセージを伝えていく姿勢は常にありますね。

逆に、人々が音楽のメッセージを読み取ろうとしているとも言えます。日本、ヨーロッパ、アメリカとは音楽に対する姿勢が異なります。彼らのメッセージ性が日本の歌よりも強いというよりも、歌が社会のコミュニケーションの中に組み込まれていて、日本で言えば演歌のように生活に密着した歌詞になっています。例えば、女性の社会進出、政府の揶揄、誰かの賞賛、イスラム系が強いので「お酒は飲むな」「ドラッグをやるな」「家族を大切にしろ」といった家族・伝統に関する教訓、などが多くあります。それは故意にメッセージを込めているというよりも、日本の演歌に酒場や男女の歌が多くみられるように(それは日本の酒場が実際にそうだからなのですが)、その社会にとって自然な文脈だからですね。日本のように個人主義的な歌でなく、社会的なつながりを歌うことが多いかもしれません。それは、社会の構造の違いによるものだと思います。

12.聞き手:アフリカを政治的・社会的に分析するとエスニシティの複雑な関係性は無視できませんが、音楽においても、エスニシティは重要な影響を及ぼすと思われますか?

鈴木氏:両方ですね。音楽にはリズムがあって、言語がありますが、アフリカの場合、民族によって独自の言語とリズムがあります。そういうものを使うことによって、民族の独自性が表現されることがありますね。でも、政治的状況によって、民族独自性が強調されることもあれば、共通のポップカルチャーが創造され、他の民族も共にそれを楽しむ可能性もあります。レゲエなどのポップスは開かれた音楽です。音楽は民族の独自性を主張するツールになる一方で、それを乗り越えたエンターテインメントとして、みんなに開かれた楽しみを提供することもあります。

13.聞き手:これまでアフリカ社会を観察してこられて、音楽から見たからこそ分かることはありますか?

鈴木氏:アフリカの人にとって音楽は我々が思う以上に大切だということですね。例えば、私達の社会で小学校の時に、かけ算九九や字を覚え、小学校、中学校、高校へ通うのに費やすエネルギーと同じぐらいを音楽に注いでいると思ってください。ですから、リズム、詞、太鼓の音などが彼らの生活の核心的部分になっていると思います。

例えば、10年後の目標を立ててそれに向かって努力していくのと、10年間、リズムやダンスを維持し続けていこうとするのとでは尺度が異なりますよね。日本人は前者の政治的、経済的尺度のクオリティで測ろうとするので、アフリカは遅れていると言います。一元的尺度が当てはめられ、リズム感が尺度となることがないので、アフリカは常に「最貧国」としてリストの最後の方に名前がでてくることになるわけです。でももしリズム感が生活のクオリティを示す尺度となれば、アフリカは先進国で、日本はアフリカよりもずっと遅れていることになります。アフリカは社会的には豊かではあるのですが、国際社会では尺度の取り方が違うので、途上国という位置づけからはなかなか脱出できないかと思います。

最近でこそ、日本にもアフリカンダンスやジェンベの教室が増えてきたり、アフリカの文化に触れる機会を求める日本人も増えつつあると思います。それは日本人が今の生活に疲れて、肉体的に感じることを求める動きがあるからだと思いますが、そこにアフリカの音楽文化が貢献できることはたくさんあるのではないでしょうか。

14.聞き手:尺度が一元化しているという点で、構造的に制約されているというのはあるような気がします。

鈴木氏:我々も自由ではありません。私の妻はギニア出身で、日本で過ごしているので日本人のことを理解して日本の生活に合わせようと最初は努力していましたが、ある程度までくると、あきらめと言いましょうか、もう日本のやり方についていかなくてもいいかな、という気になるようです。日本の生活が窮屈なようです。センチメンタルなところでは、日本もアフリカも欧米ほど個人主義ではなく、共同体的意識が強いという面で似通った部分がありますが、文化的なところでは、やはり日本とアフリカの距離は遠いようです。

人の生は瞬間の連続ですが、リズムはその瞬間のクオリティを変えるものなので、それを求めて妻のところにダンスを習いにきている生徒さんはいるようです。ただ、一部の人達を別にすれば、アフリカのダンス音楽が日本の社会に根付くのは難しいと思います。それはメディアによるアフリカ報道のやり方が、まだ「わくわく動物ランド」といったような未知を楽しむような提示の仕方でされているので、そうしたステレオタイプが壁となり、アフリカ社会の真の姿はまだ映し出されてきていないからです。

音楽を通じて普及していくという場合もありますが、邦楽に加え、アジアの音楽、アメリカの音楽が主流となってしまっている今では、アフリカ音楽が日本の音楽市場に入り込むスキマはありません。

15.聞き手:メディアの報道の影響の大きさというのはありますね。アフリカと言うと、TICADに向けて、ODA予算を集中投入しなければならない地域、日本の援助をどうすればいいのか?という見方があります。どうしても国の報道のされ方が一面的になりやすいと思います。

鈴木氏:小学生や中学生ぐらいを対象に、「この太鼓はいい音がするから叩いてみれば?」という接し方でもいいと思います。アフリカと言うと、どうしても貧しい子供、特に栄養が行き渡らずお腹が膨らんでしまった子供の写真などが使われてしまうと、そのイメージが印象に強く残ってしまうのですよね。

以前、某大学の学生が私に、「アフリカを助けたいのだが、自分は何をしたらいいのか?今度セネガルを旅行してくるが、現地のNGOなどで、何かできることはないか?」と相談してきました。

他人を思いやる彼の気持ちは尊いと思いますが、彼はアフリカの貧しさのために何かをしてあげなければならないという、少し高慢な思いが強そうだったので、私は「余計なお世話だ。まずは自分が助けてもらえばいいだろう?」と彼に伝えました。学生は、この先生はいったい何を言い出すのかと、キョトンとしておりましたが、2ヶ月間セネガルを旅行して帰ってきてから、また私のところにやってきて言いました。「先生、セネガルとマリを見てきましたが、彼らが貧しいけれども楽しく生きていたのを見て、アフリカのために何かしてあげなくては、と思うのは違うと感じました」と。彼は自分の未熟さに気がつき、自分がアフリカの人達から色々な見方を学ぶ必要があるということに気がついたようでした。このように、アフリカに興味を持つ学部生の中に、アフリカから学ぼうという姿勢の人があまりいないのでは、と思います。

16.聞き手:むしろ鈴木先生ご自身が学生の頃にアフリカに対してステレオタイプ的なイメージを抱かずに入っていかれたことの方が、珍しいのではないかと思いますが。

鈴木氏:私はもともと貧乏旅行が好きで、色々な国を楽しんでまわっていました。人のためや世界の為に何かをしようと思っていないので、興味のあることに邁進していました。そういう事を繰り返していたので、目線が身近なところに向けられ、世界的なヴィジョンで眺めるということはなかったと思います。むしろ、自分はどうやってこの貧乏旅行を続けるかという事ばかりを考えていて、少々利己的な態度だったのではないかと、今となっては反省しています。少なくとも、人を助けたいという視点ではなかったですね。

人のためにやるのではなく、自分が興味を持って動けることでないと長続きはしません。また、上から目線ではなく、同じ目線で物事を見る事がなければ、仲間にも入れてもらえません。入り口が上の人は、最後まで上にとどまります。

17. 聞き手:目線が上からになってしまうのは問題ですが、でも、アフリカの貧しい人達を助けようという気持ちも間違いではないと思います。その点のバランス感覚が難しいですね。

鈴木氏:そうなのですが、まずは自分が困っていないのかということを振り返る必要があると思います。週5日学校へ通い、その後は塾へ通い、それが大学受験まで続く。面白くない授業をきかされ、とにかく勉強しろと言われる人生に意味はあるのか、それを自問自答して考える能力の無い人は、まずは自分の人生について考えるべきだと思いますね。 私は正直、18歳までに学んだ事で今だに覚えている事は少ないです。聴いた音楽や読んだ漫画は記憶に残っているのですが、、、。

我々が「こういうアフリカを伝えよう」という型をつくってしまうと、アフリカの良いところが見えなくなる危険があります。情報を伝えるとき、自分や相手の価値観に合わせて情報を整理していきますが、下手な使命感などを持ってしまうと伝わらないことの方が多いと思います。アフリカというのは、伝える情報以上に大きい存在な訳ですから。確かに、アフリカの中から、伝えたいカテゴリーをピックアップしてこなければ伝わらないのですが、使命感に凝り固まってしまうのは良くないでしょう。人生、もっといい加減でいい、というぐらいの柔軟性があったほうがいいと思います。

18. 聞き手:今までインタビューしてきたアフリカ研究者の方々の中にはアフリカのダイナミックスさ、多様性、豊かさをよく理解した上で、やはり、絶対的な経済的貧しさはあり、なんとかしなければならない、自分で何かできることはないか?と思っていらっしゃる方もいます。その点についてはどう思われますか?

鈴木氏:世界は資本主義のシステムで動いているという事実はありますし、アフリカがその波に乗れないでいるのも確かです。しかし、そのシステムを変えることはできないと思います。それを克服するために、例えばフェアトレードをするとしても、それが世界システムに及ぼす影響を考えれば、焼け石に水でしょう。ですが、ミクロのレベルでやる意義はあります。フェアトレードをすることによって、少しでも公平な取引が出来、そこに関わるアフリカの人々の生活レベルもあがるので継続すべきです。私も古くから付きあってきたストリートボーイの何人かを助けたりしていますが、個人レベルでできることはあり、それはやり続けていくべきでしょう。しかし、世界全体のシステムを変えるとなると、基本的には難しいと思います。私はアビジャンのスラムの問題の根深さをよく知っていますが、コートジボワールの政府に働きかけて、アビジャンの貧民地区をなくそうとしてもそれは無理だと思います。

大鉈を振るって大きな改革論を掲げる人はいていいと思いますが、私自身は、そういったことに振り回されたくはありません。

助けるというよりも、自分たちに足りない事を補充してもらう姿勢が必要ではないかと思います。システムを変えるというようなことよりも、文化政策、文化交流の機会を通じて学び、子供達を中心として、人間の意識を変えることが重要なのではないかと思います。情報のみで頭でっかちになるよりも、頭の中のみでなく、身体で感じることの方が後々まで残ります。

19. 聞き手:研究者としてでも、個人としてでも、今後はアフリカとどのように関わっていきたいですか?

鈴木氏:アフリカへは今後も研究などで行きたいので、大学教授のポジションは守りたいですね!と、私欲を述べつつも、本を書きたいと思います。妻がギニア人なので、妻との出会いから結婚までのプロセスを人類学的に本にまとめたいと思います。タイトルは「グリオに恋した人類学者」。異文化の人と一緒に暮らすことによって婚姻、親族、エスニシティなど、様々な問題が生じてくるので、それを読者がバーチャルな感じで追体験できるように紹介できたら楽しいなと思っています。もちろんアフリカ音楽の調査も続けていくつもりです。

また、音楽を通じてアフリカの文化を紹介するような文化行事などにもっと力を注いでいきたいと思っています。

  

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