『カラハリ先住民とともに20年−アフリカの日常生活から日本へ発信できること−』
●アフリカ研究の道
聞き手:先生は、アフリカのカラハリ砂漠で長年に渡ってサン(ブッシュマン、バサルワ)の研究をされているようですが、具体的にはどのような切り口から研究されているのでしょうか?
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【砂漠のスイカは住民の水がめ】
池谷氏:わたしの研究テーマは、自然環境と人々とのかかわり方を明らかにすることです。カラハリ砂漠に暮らしてきたサンを約20年間にわたって研究してきました。当初は、住民による野生スイカの利用が研究テーマでした。わたしたちが食べているスイカの起源地は、実はアフリカといわれています。スイカは、水の入手が困難な砂漠住民にとって、水分を供給してくれる「水がめ」のような役割を担っているのです。人々は、スイカがあれば人は生きていけるといっています。
聞き手:確かに水分が多いから、水がわりになりますね。
池谷氏:ただ、毎年、同じ場所にスイカが自生するとは限りません。降雨の場所に応じて毎年、その場所は変わるのです。サンは野生スイカのある場所を求めて移動して、キャンプをつくり水源としてスイカを利用するのです。そこでは、スイカを集めて貯蔵しておくのです(写真1参照)。
聞き手:なるほど。 |
(写真1)
野生スイカの貯蔵庫 |
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【スイカ料理?】
この話は、1994年の1月4日にNHKの特集番組として紹介されました。「人間は何を食べてきたか?」というシリーズの一環で、『砂漠の水がめ「スイカ」』というタイトルです。日本人の食卓で人気のスイカの起源が、実はアフリカにあり、砂漠で生きる人類の生活を支えてきたという内容でした。例えば、現地では野生スイカのほかに栽培スイカも利用していますが、人々がそれらをどう区別して呼んでいるかということや、日本ではおよそ想像のつかない色々な調理方法などを紹介しました。例えば、スイカを丸ごとたき火で焼く「焼きスイカ」や、スイカ果肉を煮込む「スイカ鍋」があったりします。そこには、スイカの種を臼でつぶして入れたりもするのです。
聞き手:何か、溶けてしまいそうですね。
池谷氏:日本のスイカに比べて果肉がかたいのです。わたしは、そこのコミュニティを対象にして、今でも毎年、そこには足を運んでいます。最近では、毎年、町で種を購入しなければならないF1種(雑種第1代)の種(甘いスイカ)が導入されてはいます。しかし、人々と在来スイカとのかかわり方は大きく変わってはいません。
(写真2)
サンのヤギ飼養 |
【農耕や牧畜も行う狩猟採集民】
また、サンの人々は、狩猟や採集に依存する狩猟採集民に区分されるのですが、実は、生業の一環として農耕や牧畜にも携わってきたのです。例えば、野生スイカの採集のみならず、雨季を利用してスイカを栽培したり、あるいはヤギの飼育もしたり(写真2参照)。そういうことも研究しました。
聞き手:狩猟採集民が農耕、家畜を飼っているのですか?
池谷氏:この点は論争になっているのですが。実は、これまで1960年代の人類学の研究によって「彼らは、実は1日2時間ぐらいしか働いていないのに十分な食糧を得ている」ということがわかっています。これは、彼らが貧し |
くて厳しい生活環境のなかであくせくと働いていたという従来の見方を変える大きな発見でありました。そして、狩猟採集民が、純粋に狩猟や採集だけでなく、実は農業や牧畜も組み合わせていたというのは、彼らの歴史を復元するような実証的な研究で証明されつつあります。つまり、彼らはこれまで孤立した生活を送ってきたわけではなく、さまざまな近隣集団との関係(例えば農耕の導入)を維持しながら現在にいたるのです。しかし現在においても、サンの歴史をめぐって、彼らと農耕民との接触が彼らの文化にどの程度の影響を与えたのかに関しては意見が分かれるところであります。 |
【犬を使う猟】
さらに、ブッシュマンというと、弓矢をもって身をかがめながらそーっと獲物に近づくイメージがあるかもしれませんが、今はロバや馬に乗って、あるいは犬の助けを借りた狩猟をします。この犬とサンの関わりに着目した研究もしました。現地の調査では、泊りがけの狩猟に同行させてもらったりしました。
聞き手:犬で獲物を追いつめるのですか?
池谷氏:いえ違うのです。彼らは、犬が獲物を立ち止まらせるので、その隙に槍で仕留めるのです。犬の行動をよくみていると、彼らの犬は猟犬のように訓練されたものではなく、暑さのあまりに猟の途中で帰ってしまったり、交尾に夢中で猟に参加できなかったりするのです。犬に個性があるのですね。また、日中は暑いので、キューホと言って彼らは夜通し歩くのですが、それについていったときはさすがに大変でした。夕方の6時ごろに狩猟キャンプを出発して、集落にもどったのは朝の5時ごろでしたか。
●変わりつつある調査地
【調査地が先住民運動の中心に】
池谷氏:こうした研究を続けているうちに、これまで自然保護区(中央カラハリ動物保護区)に暮らしてきたサンを、保護区の外に設置された居住区域に住民を強制的に移さなければいけない事態が生じました。1997年ごろでしょうか。政府が保護区内での地域住民の暮らしよりも、サファリ観光などを優先したためです。その結果、その前後から移住政策に反対する運動が生まれました。当時の世界的な先住民運動の影響もあり、1998年あたりにその運動は活発になってきました。その過程で調査地の住民が、運動のリーダーとして世界的に有名になっていったのです。
現在のリーダーでもあるRさんは、私がNHKの取材で入っているときは、私に「タウタウ(注:現地の言葉で「疲れさせる奴」の意。撮影の際に、繰り返しで同じことをやらさせるので)」なんてあだ名をつけて、ちょっと斜に構えていたような人物です。そもそもわたしは、スイカ採集者として彼と付き合い始めたのですが、先住民運動が盛り上がっていくなかで、彼が運動の中心的人物として非常に注目されるようになったのです。その後、サンの人々が強制移住に反対して政府を相手に裁判を起こしていくのですが、その背景には、欧米のNGOが付いて裁判費用や弁護士の手当てなどを負担し、さらに国際世論を喚起していくなど、サンの問題が世界的に注目されるようになりました。わたしは20年間同じ場所で調査をしてきて、例えばRさんの動きを長年にわたって観察するなかで、先住民運動というのが、単なる国際世論に乗っかったブームなのか、本当に先住民にとって必要な運動なのかということが見えてくると考えています。
【研究者の持久力】
わたしは、これまでの調査経験から、現地で長年にわたって定点観測をする持久力が研究を行なう上で重要だと思います。サンの人びとに対する援助についてもそうです。1980年代以降現在まで、彼らは毎月、政府から主食となるトウモロコシなどの配給があり、援助漬けの生活を送ってきているようにみえます。このため、狩りをして獲得した動物の肉を売った代金は、酒代に消えてしまうようなこともあるのです。わたしは、現地で滞在して、彼らが援助に頼らなくてもよい生活の仕方を提案しなくてはならないと考えています。
最近では、これまでの移住政策を拒否して、自然保護区内にもどった人々もいる点に注目しています。ふつうなら地表水のない砂漠にわざわざもどるなんて信じられませんが、彼らはずっと今までそこで暮らしてきたわけで、なかには水のある移住先よりも水がなくてももとの場所の方がよいといってもどっていったのです。彼らは援助を受けられなくなってどうやって暮らしていくのか、気になっているところです。
聞き手:水のないなかでどうやって暮らしたのですか?
池谷氏:そのひとつがスイカなのです。スイカのなかには、食べるための栽培スイカと水になる野生スイカとがあります。野生スイカを採集することで、人びとは砂漠のなかで生きてゆくことができたのです。
聞き手:なるほど。すべてつながっているのですね。スイカも先住民運動も。
池谷氏:まったくそのとおりです。しぶとく1ヵ所で研究を続けてこそ、いろいろなことがわかってくるのだと思います。このように研究者としては、自分が感動するものに出会い、20年間、同じ場所に通い続けることが基本です。対象の変化や私自身の変化に応じてテーマは変わるのですが、研究に対する強いモティベーションをどうやって維持するかということも重要な点であると考えています。
●比較研究のはじまり
聞き手:先生の著作を拝見すると、アフリカ以外の地域でも、例えば日本の東北地方における山菜採りの村であったり、ベーリング海峡に面するロシア側のクジラを獲る村で調査をされているようです。また、最近ではタイやネパールの狩猟採集民についても書かれていますが、これらはアフリカの研究と平行して行っていらっしゃるのですか?
池谷氏:自分の関心領域は、最初に述べたように自然環境と人との関わり方ですが、アフリカが一番面白いと思って20年間続けてきたのです。しかし、最近、そういった大きいテーマの下でのアフリカの位置づけを再認識する必要があると感じています。例えば、テーマの一つとして野生動物の狩猟のあり方があるのですが、サンは先ほど述べたように、自然保護区内での規定が改正されて、狩猟自体が密猟扱いにされかねないような状況になっています。だから、サンの狩猟について調査を行っても、それを文章に残すことが出来なくなったのです。そこで自分としては、動物と人との関わりを原点にして体当たり的に研究ができる場所として、ロシア側のベーリング海峡に着目して調査をしています。そこでは、クジラの他にもセイウチなどの海獣類も捕獲しているのです。最近では、現地で現金収入源がほしいためにセイウチの肉の缶詰工場なんかも建設中であったりして、WWF(世界自然保護基金)が真っ向から対抗してきそうな気配もあります。その一方、農耕民との接触がほとんどなく、日本ではいまだにあまり知られていない狩猟採集民が暮らすのはアマゾンです。自然と人間との関わりの原点がみえるのはアマゾンで、体当たりの調査が出来るのはベーリング海峡の村だとすると、アフリカで調査することの独自性は何なのか、アマゾンやベーリング海へ行くと考えさせられます。
聞き手:たとえば、どういうことを考えましたか?
【地球環境問題への取り組み】
池谷氏:そうですね。わたしは、これまで自然環境と人との関わりというテーマは、最もアフリカが面白いんだと思い込んできたように思います。他の地域も同様に面白いんだということが、ここ10年くらいでわかってきたのです。そうすると、なぜアフリカを研究するのか?、アフリカの面白さは何なのか?ということを今まで以上に考えるようになりました。アフリカ研究のなかでアピールできる点を模索しないといけないと強く思っています。
そこで、現在のわたしは、研究会や学会などを通じて、なるべくアフリカ以外の地域を研究している人との交流を重視しています。自分のフィールドにも沢山興味を引く事象があり、そこから色々なアイディアが出てくるのですが、そのテーマは、果たしてアジアの研究者が見て面白いと思ってもらえるのか?他の地域と共通した、どういう切り口があり得るのか?ということを常に考えています。
聞き手:具体的にいうと?
【交流しつつひっそり暮らす】
池谷氏:例えば、先ほどサンの生業において、狩猟採集のほかに農耕や牧畜も組み合わせている話をしたのですが、現代のアフリカ狩猟採集民は、色々な国家政策の影響もあり、定住化が進んでいるのです。ところが、最近、ネパールやラオスなどの熱帯地域で、移動しながら生き延びている狩猟採集民がいることがわかり、とても興味を持っています。彼らは、農耕文明が栄えた地域の周辺で、農耕や牧畜が拡大する環境にも関わらず、狩猟採集民として移動をしながら、ひっそりと生き延びてきている。しかもマジョリティである農耕民と接触を保ちながらです。例えばネパールのラウテという民族は、木工製品を作り、それを農産物と交換しているのです。農耕民と接触しながらも影響されすぎず、独自の社会的境界を維持する。地理的には隔離されていないのに文化的には集団性を維持する独自の生き残りと接触の戦術を持っている。そもそも土地にしばられていない訳ですから、平和術、交渉術、関係術など、そういうことに長けている集団だと思うのです。
【研究者の足元である日本への貢献】
さらに、わたしは、アフリカを研究することで、日本の抱える問題に何らかの示唆を与えたいと思っています。例えば、人と野生動物とのかかわりの研究は、日本で最近問題になっている里山の獣害問題に貢献できると考えていますし、先住民運動の研究は、日本のアイヌの問題にも示唆を与えることができると思います。こう強く思うのは、自分がそもそも北海道大学でアイヌ研究に関わる研究施設(文学部北方文化研究施設)に所属していたり、東北地方の山村での山菜採りの研究をしていたことに起因するのかもしれません。サンのようなアフリカの先住民のことを考えると同時に、日本のアイヌのことを知らないといけないと思います。例えば、アイヌの場合は、江戸時代には松前藩の場所請け制を通じた間接統治があっても、アイヌの文化は生かされていたのですね。
聞き手:場所請け制といいますと?
池谷氏:松前藩が道内の各地域を場所として和人の商人(運上屋)に貸し出すシステムです。商人は、その場所でアイヌの人々を漁業などの労働者に雇うことで収益を得たと聞いています。ところが、明治に入ってから政府が強制的に儀礼や言葉を廃止し、文化統合を進めています。そして明治20年くらいから数多くの和人がアイヌの村に移住しました。しかし、「二風谷(にぶたに)」という村だけは、どんなに和人が入っていってもアイヌ人口を越えることはなかったのです。
このことは、アフリカにおいて現存するサンの村やネパールのラウテやタイのムラブリの村を考えるうえでもヒントを与えてくれるのです。先ほど述べたように、人々は、近隣の民族と接触しながらも影響されすぎず、独自の社会的境界線を維持してきたのです。私たちは、文化的には集団性を維持する独自の生き残りと接触の戦術を彼らから学ぶ必要があります。わざわざアフリカにまででかけていって先住民の研究をさせてもらっているわけですから、今後とも日本の社会とのつながりを見出していきたいと思っています。
●研究成果の社会への発信・還元
【アフリカをどう日本の社会に伝えていくか】
聞き手:先ほど、アフリカのスイカの話がNHKの番組として報道されたというお話でしたが、発信の方法として映像を用いるというのは大変効果的だと思いました。何か、工夫されていることはありますか?
池谷氏:自分の研究してきたアフリカをどのように社会に還元するかは大きな課題であると考えています。私の所属する国立民族学博物館は、映像や展示といった方法を使ってアフリカを紹介しています。ところが、展示を訪れる客足をみると、イスラム地域とアフリカ地域はどうも苦手扱いされているようです。
また、マスコミの方のアフリカへの関心も低いように思います。先ほどお話したサンの先住民運動の話では、2006年12月に裁判があり、先住民が自然保護区で居住できる権利を獲得しました。これらの一連のプロセスは、「サバイバル・インターナショナル」等の国際NGOの作用も無視できないのですが、CNNもBBCも現地に取材班を派遣して報道するなど、かなり注目されたことでした。ところが日本ではほとんど報道されないのです。せいぜい新聞の国際面に小さな記事が出る程度です。
聞き手:どうしてなのでしょう?
【マスコミ受けしない普通のアフリカ】
そもそも日本ではアフリカの話がメディアに載らない構造がありそうです。テレビで報道されるアフリカは、動物番組を除くと貧困や紛争などの映像が取り上げられることが多いのです。現地駐在の記者の話によると、普通のアフリカの生活は東京の編集部に見向きもされないという厳しい現実があるようです。普通のアフリカを見せるにはどうしたらいいか。どうしても日本社会との接点をみつけることが必要な気がします。アフリカを単独で紹介するのではなくて、アジアを入れたり、日本を入れたりして比較の視点を入れていかないといけないと考えています。
同時に、日本のテレビのドキュメンタリー番組のレベルが全体的に落ちている現実もあります。スイカの番組を制作した頃は、まだ質の高いドキュメンタリー番組があったのですが、最近はドキュメンタリー番組の数が減り、テレビ全体がバラエティー番組で埋め尽くされているという現状があります。そういう状況ですので、わたしたち研究者がテレビ局との協同作業をして、視聴者には単に現地の人と出会って感動したというお決まりのパターンではなく、アフリカの現実を伝える番組を制作するというのが重要になっているように思います。
●変容する新しいアフリカ
聞き手:とにかく情報の絶対量自体が少なすぎるという深刻な状況にあると思います。確かにアフリカが「かわいそう」という一面的な見方は、これまでインタビューしてきた研究者の方々は、誰一人としてされていませんでした。
【アパルトヘイト崩壊後の南アフリカの都市】
池谷氏:そのとおりです。例えば私は1994年にケープタウン大学に客員研究員として滞在したことを契機に、それ以来ケープタウンの「スラム」の人々とのつきあいが続き、これまで住んだこともあります。スラムというと悲惨なイメージがあるのですが、私自身は一度も「かわいそう」と感じたことはありません。実際は都市に近い別荘みたいなおおらかな雰囲気なのです。つまり田舎に実家があった上で、スラムに拠点を作り、力があればもっと都心に出て行くけど、だめなら田舎に帰るというような、そんな気軽さが彼らにはあります。
その一方、アパルトヘイト廃止後のヨハネスブルグの変容は、目を見張るものがあります。かつてはアパルトヘイトで守られていた白人の居住区だった街の中心部に、アフリカ中から色々な民族が入ってきています。ヨハネスブルグが、南アフリカという国民国家を飛び越えて、ニューヨークのような国際都市に成長しつつあるイメージです。これは直接見た話ではないのですが、ナイジェリアのある人々がビルを借り切って不法なビジネスに手を染めているようなケースもあるようです。これから若い人でアフリカ研究をやりたい人は、この辺りを研究対象にすれば、21世紀のアフリカの縮図が見られるように思います。
【アフリカは危険な所?】
聞き手:身の危険を伴いますね?
池谷氏:現地に入っていくと、意外に危ないところは地域的に絞られていくのが私の経験です。内戦当時のアンゴラにも随分通いましたが、実際に入ると、意外と半分くらいの地域は平和だったということがあります。
【中国によって塗り替えられるアフリカの地図】
池谷氏:アフリカの変化という点からは、中国のプレゼンスの拡大には目を見張るものがあります。まず飛行機のネットワークが変わってきています。北京、広州、上海といった中国の主要都市からアフリカに直行便が飛び、アフリカ中に中国の大使館がある。やってくる中国人も、研究者や政府関係者といった層だけでなく、小売業をする人、建設系の人といった具合に上から下までラインが全部揃うという感じです。ボツワナでは現地の労働力として中国人はすごく優秀だと思われていて、地元の人々の仕事を奪うということが問題になったことがあります。資源開発の分野では、中国はもちろんのこと、東南アジアの国も活発な動きを見せています。例えば、マレーシアやタイが自国で制限されている森林伐採をアフリカでやっていたりする。こられの動きは、先ほど述べたヨハネスブルグの国際的な都市化と平行して、アフリカの地図を塗り替えるようなインパクトを持った話だと思います。
●民族学(文化人類学)者は、援助にどう関わるか?
聞き手:現地に張り付いて研究される民族学の立場からは、援助はどのように見えているのでしょうか?
【世界の見取り図はできているか?】
池谷氏:日本では、政府レベルでアフリカに対する援助を増やしていこうという動きがあるようですが、今述べたようにアフリカ自体がどんどん変わっていく中で、日本人の関心が内向きになっているのではないかという点を懸念しています。日本人のなかにアフリカを含めた世界の見取り図ができていないように思います。アフリカに関する情報のなさとか、国際的な流れにあわないところなどが露呈してしまうのではないかという心配です。日本のODAは政府対政府の援助で、援助対象国の政府が、現地のニーズをくみ上げているというのが前提ですが、民族学者の眼には、現地のニーズと一致していないと映ることが多いのです。
聞き手:特にアフリカでは、マージナライズされた人々のニーズが援助の主流言説に乗ってこない問題が顕著であるような気がします。
【援助に不可欠なオールラウンドな力】
池谷氏:しかし、この問題は援助関係者の人が、「相手国政府の言ってきたことだから(ニーズは確認されている)」と主張するのに対し、民族学の側から「地域のニーズに対応した援助を」、と主張しても平行線をたどるばかりだと思います。そもそも援助とか政策というものが、定住化を前提とするステレオタイプのもので、非定住民には馴染まないものだったりすることも多いわけです。ただし、研究者が発言しながら、地元のニーズをくみ上げて援助している例はあると思います。
ボツワナでは、ノルウエーの研究者のパワーに敬服しています。日本人はある特定の分野の専門家として特定の地域をミクロ的に研究する場合が多いのに対し、彼女らは、村のレベル、町のレベル、そして更に国のレベル、さらには3,4カ国研究するみたいな規模の研究者が多いのです。そうすることによって、初めて対象を面で捉えることができ、援助に対しても建設的な提案ができるようになるのではないかと思います。日本の研究者の場合は、点で捉えて、自分の調査地はこうだと言っている。もっと何にでも対応できる力を育てないと、アフリカ諸国からの援助の要請に応えられないような気がするのです。いろいろなところに活動の場を広げ、援助従事者を理論的にも経験的にも上回る人材を育て、援助を研究者のペースにしてしまうぐらいのパワーが必要とされていると思います。
●研究者としての今後の課題
聞き手:研究の発信、研究者として援助などの実務にどう向き合っていくか、非常に示唆深いお話だったのですが、最後に今後の研究課題等を教えて下さい。
【これからは環境史】
池谷氏:まずは、やはり研究者として新たな一点を突破することを目指したいと思います。自分は、カラハリ地域での長い経験を生かしたいと思っています。先ほど、カラハリ砂漠の狩猟採集民サンが、農業や牧畜を組み合わせて生活をしている話をしましたが、狩猟民自体、かつては狩猟民でなく、例えば500年前までは農民で、何らかの環境の変化をきっかけに狩猟採集民に変わったというような仮説もありうるのです。
例えば、森の歴史を見ても、原生林と思われていた森が、実は人間が生活していく上で使い勝手のよい木が組み合わされたもので、日本の里山のように人の手が入っている森だったということもあります。森が人為の作用によって変化してきたのです。
例えば、サンが描いたとされる岩絵(注:ユネスコの世界文化遺産に指定されている)ですが、すごく古いものと考えられていたのですが、実は西暦500年〜800年くらいの比較的新しいものだとわかってきました(写真3参照)。それらは、狩猟採集民が農民と接触を持つ上で軋轢が生じ、そのストレスを表現したものではないか、あるいは狩猟民だけでなく農耕民が描いたのではないかという新たな解釈がされている訳です。この意味で、これからは人間と自然の関わりが、歴史、特に環境の変化によってどう変化してきたかという「環境史」のような視点が 重要であると思っています。
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(写真3)
岩絵とキリン
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それと、先ほども言いましたが、やはり、アフリカを世界的な文脈の中で相対化するということをかなり意識した いと思っていますね。さらに、日本のアイヌの問題や獣害問題に独自の意見を提示できるようなパワーをつけたいと考えています。
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【日本人のアフリカ観を変えていく】
2つめは、やはり日本でのアフリカの扱いをどうにかしないといけない、という思いがあります。アフリカをどう伝えていくのか、文字媒体だけでなく、展示、映像、ありとあらゆるものを使って伝えていきたいと考えています。ところが、掘り下げていくと、どういう視点で伝えるのか、その視点をどうやって具体化していくのかという問題にぶつかります。アフリカが、一般社会とどのような接点を持つのかを考えなければならないのです。そこで、現代社会であるマスコミの組織や、援助機関に相当程度入り込まないと、それらを実現できない厳しい状況があると思います。ただ、実際、それらを実現している北欧の研究者がいます。彼らが、開発の世界に関与しているのは、1年かけてじっくりと論文に取り組むといった研究者のスタイルではなくて、実務的な能力も含めたかなりマルチタレント的な部分で勝負しているように思います。ところが日本では、各学問分野が細分化しすぎて、そのような能力を鍛える場所があるのか疑問に思っています。鍛えられ方が違うのでしょうか。負けずにがんばらないといけませんね。
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