研究者インタビュー

 


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研究者インタビュー No.13

話し手:

亀井伸孝 氏 (東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 研究員)
聞き手: 山田肖子、二井矢由美子
実施日: 2007年11月21日  15:00-16:30

 

<アフリカの手話という研究テーマとの出会い>

1.聞き手:先生は、アフリカの手話というたいへんユニークな研究をされているわけですが、このテーマ
との出会いを教えてください。

亀井氏:

【アフリカとの出会いはたまたま】
ずっとアフリカが好きでこの道に入ったというわけではありません。もともとは京都大学理学部で霊長類学や生態人類学を専門とする人類進化論研究室に入り、修士課程ではニホンザルの調査をしていました。しかし、サルを見ていていちばんもの足りなかったのが「話が聞けない」という点でした(笑)。サルの子どもは今どうしてこっちを見たんだろう?本人に聞いてみたいのですが、聞けないし、答えてくれないし、こっちで想像するしかないですよね。やっぱり私の興味は人間そのものにあるのかな、ことばを使って理解する方が向いているのかなということに思い至り、その研究室と人脈でつながっていた京大のアフリカセンターに相談に行きました。そこで、カメルーンでピグミー系狩猟採集民の研究をしているチームの一員として調査をするチャンスをいただき、ここでアフリカとめぐり会いました。はじめからアフリカにこだわっていたというよりも、人類学の人脈の中でたまたまめぐりあった地域だったんです。もちろん、その後好きこのんで何度もアフリカに通うようになるわけですから、最初のきっかけだけで今の私が決まったわけでもないのですけれど。でも、始まりは唐突でした(笑)。

【手話との出会い。ご近所の異文化に目を開かれる】
一方、修士課程を修了した頃に、日本で手話の勉強を始めました。いちばん最初のきっかけは、ろう者をテーマにしたフランスのドキュメンタリー映画を見たことです。何てことはない、知人に無料のチケットをもらったので見に行ったんですが(笑)、これがけっこうよくできた映画でした。耳の聞こえない人たちが手話を話しているというのは漠然とは知っていましたが、それがれっきとした言語で、その言語を話す人たちが一種のコミュニティをつくり、独自の文化や歴史をもっていると。そういったことをこれまで想像もしていなかったことを恥ずかしく思い、これは一度自分で体験してみなければ、というフィールドワーカー的な好奇心がわいてきました。実際に手話の勉強を始めてみますと、「こんな身近なところに私の知らない異文化があったなんて!」とあらためて驚くことが多かったのです。同じ町内にある「ご近所の異文化」なのに、私たち聴者(耳が聞こえる人たち)はそのことを知らなかったんだ。そういうショックもあって、けっこうがむしゃらに日本手話の勉強をしました。 私は概して、独自の文化をもつとは思われていないグループの中に分け入って、「常識はまちがっていた、実は豊かな文化がここにあるんだ」という驚きに出会ったり、それを紹介したりすることに広く興味があるのだろうと自分で思います。これは、アフリカにまつわる誤解や偏見をひとつずつ解いていきたいという思いともつながっています。

 【狩猟採集民の子どもの文化を研究した】
さて、アフリカ調査のチームに加えていただき、ピグミー系狩猟採集民の調査のため、1年半ほどカメルーンの熱帯雨林で暮らしました。とくに私の関心は、狩猟採集民の子どもたちの生活と文化にありました。子どもたちは森の中で遊びながら、狩猟や採集をしたり、道具やおもちゃを作ったりしています。文化人類学では子どものこ とを、おとなに教え育てられる受動的な存在、一人前のおとなになるための通過点として描きがちなのですが、「できかけのおとな」というよりもむしろ子どもたちは自分たちの森の文化をもっているなという直感があったので、さっそく子どもたちの集団に弟子入りして、毎日森に連れていってもらい、いろいろな遊びを教えてもらいました。おとなの文化をうまく取り入れて作るおもちゃもあれば、おとなの及び知らないところでやっている遊びもありました。それから、たとえばつるが一本あったとしても、おとなだったら家を造る素材にしますが、子どもだったらそれを小さなわななどのおもちゃ作りの素材にするなど、森のどの植物がどういう遊びに使えるかを子どもたちはとてもよく知っていました。この研究も「子どもに文化などあるはずがない」と決めつけるのではなく、「ほら、子どもたちも独自にすごいことをやっているんですよ」と示したい、そういう自分の研究の底を流れる関心の延長線上にあるのだと思います。

【カメルーンでろう者と出会う】
狩猟採集民研究のためにカメルーンにしばらくいたわけですが、その間に現地のろう者に初めて会う機会がありました。首都にろう学校があるということを聞き、休暇で森から町に出た機会に立ち寄ってみました。初めてろう学校の校庭を見たときの光景が、今も忘れられません。生徒たちの姿がぱっと目に入ったのですが、もちろん日本のろう学校とは違って、見た目は黒人の子どもたちだし、服も建物も風景も違うし、しゃべっている手話言語も違うんですけれど、小さな子どもたちが校庭を駆け回りながらかわいい手でペチャクチャとおしゃべりをしている姿は、日本で見たのとそっくりでした。世界中どこに行っても、聞こえない人たちは手を使っておしゃべりするんだな、自然なことばとして手話を話すんだなという直感が、この校庭の風景を一目見たときに浮かんだのです。きっとアフリカ中に同じようなろう者たちの集まりがあるんだと思うとワクワクしてきて、さっそくおとなのろう者たちと会って手話の勉強を始めました。もちろん、本業の森の中での狩猟採集民調査があったので、この頃はまだ手話は余暇時間に少し学ぶていどでした。

そんなある日、カメルーン研究の先人である和崎春日先生(現・名古屋大学)と現地でお会いする機会がありました。手話との出会いについてお話ししたところ、「おもしろいことをやっているようだから、ぼくが編集しているアフリカの社会福祉に関する本の一章に書いてみないか」とのお誘いをいただき、一も二もなく「はい」と即答しました。これが、余暇活動ではなく研究としてアフリカの手話に関わり始めるきっかけとなり、いわば私の「副業」が始まったわけです。

長期調査を終えて日本に戻ってからは、しばらく狩猟採集民の研究をメインに続け、森の子どもたちの文化についての博士論文をまとめました(現在、本として出版するための準備を進めています)。そのかたわら、ふたたび日本手話の世界にのめりこんでいきました。一年半アフリカに行ってよその手話を覚えている間に、日本手話の方はすっかり忘れてしまったものですから(笑)。この頃に多くの日本のろう者の知人ができ、そのコネクションは今も私の財産となっています。私の妻(ろう者)と出会ったのも、この頃です。アフリカの手話のテーマに重きを置くようになったのは、博士課程を修了して日本学術振興会の特別研究員になってからです。研究員に応募するとき、アフリカの狩猟採集民とろう者のどちらもおもしろいテーマなので迷ったのですが、ほとんど前例がない新しい研究領域だということが後押しとなり、手話のテーマで応募することとしました。幸い研究の機会をいただけることとなり、アフリカの手話に関する長期調査を本格的に始めたのです。

聞き手:これまでの先生のお話をうかがっていると、異文化に対する垣根がご自分の中でとても低く、自由自在に文化の壁を飛び越えられるような感じを受けるんですが、それは先生ご自身もって生まれたものなのでしょうか?また異文化を調査対象とする上で気をつけていらっしゃることなどありますか?

亀井氏:

【現地調査は飛び込んで教えてもらい、調査とセミナーをセットでする】
ほかの方と比べて格段に垣根が低いのかどうか、自分ではよくわかりませんが(笑)。人を相手に調査を始めた頃は、サルの調査とはわけが違いますので、自分のようなよそ者はおじゃま虫かなぁと気にすることもありました。狩猟採集民の集落をいきなり訪れて住み着いたりしてよいものか、と。あるとき、霊長類学・人類学の大家でいらっしゃる伊谷純一郎先生が、カメルーンに番組の撮影で来られて、学生だった私はドライバー兼カバン持ちで旅行のおともをしたことがあります。当時、先生の年齢は70歳をこえていたと思います。私にとって大先生にあたるその方が、ピグミーのことばも知らないのに「ちょっとそれもらってええか?」と関西弁で話しかけてつまみ食いさせてもらったり、その辺で子どもたちと踊ったりサッカーしたり、たわむれているんですね。大先生がこんなことをしているのか(笑)と思いまして。一人でマナーや倫理を頭でっかちに考えて悩むよりも、まずは飛び込んで教えてもらうという姿勢が先なんだと知りました。このような経験もあって、いっそう私の垣根が低くなったのかもしれません。伊谷先生のスーッと自然に人びとの間に入っていく姿は、とても印象に残っています。

現地の人たちとのつき合い方のマナーは、飛び込んだ後に自己流でつくり上げていくのがいいのかなと思います。手話の調査をするようになってからですが、私は現地調査中にろう者たちと研究会やセミナーをよく開くんですね。しかも、必ず自分が手話を使って講演することにしています。論文を謹呈するという方法もありますが、ろう者たちの第一言語は手話ですので、書きことばよりも手話で語られることばの方が鮮明に受け止めていただけるし、親近感をもっていただけるんです。たとえばカメルーンでセミナーを開くときは、「このあいだ調査に行った隣国のナイジェリアではこうなっていたよ」というような話をします。つまり情報の運び屋さんのような役回りです。訪れたその国のことについては地元の人がいちばんよく知っていますが、アフリカのほかの国のことは知らないことも多いですから。私がよその国でフィールドワークをしてきた経験を話すと、「ウチとは違うぞ!」みたいにたいへん興味をもってもらえるんですね。こうやって、自国のことばかりでなくほかの国と比べたり、違いや共通点を知ってもらったりすると、そこからまたおもしろい反応が出てきます。こんなふうに、最近私がアフリカに出かけていくときは、調査とセミナーがセットになっています。情報の運び屋をしたり比較の視点を示したりすることは、地元の人にはなかなかできない「よそ者ならではの貢献」なのだろうと思います。

<アフリカの手話研究の具体的な内容 >

2.聞き手:アフリカの手話研究に重きを置くようになった経緯を楽しく聞かせていただきました。次にアフリカの手話研究の具体的な内容について教えていただけますか?

亀井氏:

【ろう者によるろう者のための教育事業】
世界で多くの音声言語が話されているのと似ていて、世界各地には多様な手話が分布しています。ところがアフリカでは、欧米の手話言語が数多くもちこまれて教えられているという状況があります。当初、私はこのようなことについて「けしからんことだ、これは一種の植民地主義で、アフリカのろう者にとって迷惑なことではないか」という見方をしていました。外来手話をもちこんだ学校などに対して懐疑的な姿勢で調査し、実態を世に示したいなどと考えていたんです。ところが、この見方が後でがらっとひっくり返るのです。アフリカ各地でアメリカ手話(注:アメリカ合衆国のろう者の間で使われている手話。イギリスの手話とは異なる)によく似た手話が教えられていたり、日常会話で使われていたりします。しかし、それをもたらした人や学校は地元のろう者の反発をまったく受けておらず、むしろ「あの人たちはすばらしいことをした、そのおかげで今の私たちがあるのだ」というふうに尊敬されている。近年のフランス手話の強引な導入には反発するろう者もいるのに、アメリカ手話をもたらした人物についてはむしろ感謝し尊敬している。この違いは何だろう、ここのろう者たちの価値観や歴史観はいったいどうなっているんだろうと思い、いろいろと調べ始めました。 すると、ろう者たちが運営するあるキリスト教団体の存在が浮かび上がってきたんです。これはアンドリュー・フォスターというアメリカの黒人ろう者が設立した団体ですが、調べてみるとそれはカメルーンだけの話ではなく、ナイジェリアの拠点でアフリカ20カ国ぐらいの人材を養成して派遣していた、たいへんスケールの大きな事業だったという実態がわかってきました。しかも、アフリカ人ろう者たちがどんどん参画し、スタッフや教員として事業をきりもりしていた。そして自分たちのことばである手話によって、ろう児たちを教える学校の設立事業を展開していた。まさに「ろう者によるろう者のための教育事業」であることがわかったのです。この事業のすごさは、世界の状況と比較するとよくわかると思います。日本もフランスも、また一時期のアメリカもそうだったんですが、先進諸国ではろう児たちにできるだけ手話を使わせずに音声言語の訓練を行う「口話法教育」というのが長らく続けられていました。教室で手話を使ってはいけないと先生に叱られ、ろう者の先生が手話で教えることが許されないという状況があったのです。ろう者たちは、自然には身につけられない、しかも自分で聞いて理解することができない音声言語を強いられる教育にたいへんな苦痛を覚え、その潮流に強く反発しましたが、各国の政府が政策として進めたこともあって、この手話の受難の時代が1世紀ほど続くことになります。

聞き手:手話と口話の違いについて説明していただけますか?

亀井氏:

【先進国で手話が制約された時代、アフリカでは手話教育が普及】
手話とは、基本的に音声言語とは異なる文法をもつ別個の言語です。ただ、手話にもいろいろなバリエーションがあり、音声の影響をほぼ受けていない手話もあれば、音声言語の要素をいくぶんか取り入れた手話もあります。また、書きことばのつづりを視覚的に示す「指文字」を使ったりするなど、ろう者の視覚的なコミュニケーションにはいろいろな方法があります。しかし、純粋口話法という20世紀に先進国で猛威をふるった教育法は、そういう視覚的手段を使わず、ろう児たちが自分で声を出し、相手の口の動きを見るだけで内容を理解することを求めるという方針を採っていたんです。

フォスターたちがアフリカで展開した事業は、ろう者のキリスト教運動という形をとりながら、手話で教えるろう教育をまたたく間に拡大していきましたが、このようなことは先進国の厳格な口話法ろう教育政策のもとではなしえなかったことだと思います。皮肉なことですけれども、アフリカ諸国の政府がろう教育政策を行わなかったがゆえに、かえってその自由さの中で民間のろう者たちの事業が成功したと考えられます。このように、ろう者たちが自力で道を開いてきたという歴史観が手話で語り継がれているために、ことばとしてはアメリカ由来の手話を使って教育していたのですが、事業そのものや、それを率いたフォスター、事業に参画したアフリカ人ろう者たちのことは、手話で語られる歴史の中では肯定的に伝えられているのです。

聞き手:今のお話を聞いていると、先生の研究がポストモダン的というか、聴者や先進国、とくにヨーロッパの視点からろう者やアフリカを語る従来の言説のフレームワークを越え、ろう者の側からろう者の社会の豊かさ、奥行きの深さを提示しておられ、非常に大きな可能性を感じるんですが。

亀井氏:

【ろう者の間で深く濃く語り継がれるもうひとつの歴史】
私のテーマには、「ヨーロッパから見たアフリカ」と「聴者から見たろう者」というふたつのステレオタイプが関わってくるんですね。「アフリカは貧しい遅れた地域」、そして「ろう者はことばが不自由な人たち」みたいな見方です。ところが、ことばに不自由どころか、自分たちの言語である手話で国際事業を展開していた人たちが、なんとアフリカにいたわけです。たとえば、ろう者がたった一人で音声言語集団の中にいたら、「音声言語を話せないおとなしい人」という印象で終わるかもしれません。でも、その同じろう者が手話言語集団の中にいると、それこそ水を得た魚のようにその世界で大活躍している姿に出会うことがよくあるんですね。つまり、聴者が見ている側面は、ろう者の現実のほんの一部でしかない。逆に、耳の聞こえる私がろう者たちのことばを覚えてその手話の集まりに入っていくと、ぱっと見えてくる広い世界というのがあるんです。アフリカのろう者の活躍ぶりを見ていると、ふたつのステレオタイプにとらわれた私たちの思い込みが二重の意味で揺るがされます。現実の大きさを考えると、外部の人による先入観がいかに矮小なものかと思い知らされます。私の仕事とは、自分で生みだした新しい研究成果というよりも、アフリカのろう者たちの間ではみんな知っていること、ただし手話の物語としてだけ語り継がれているので、一歩その世界から出たら聴者たちはぜんぜん知らないこと、そういう話を集めては外部に紹介していることなのかな、と思います。まさに「情報の運び屋さん」です。

フォスターは、アフリカ諸国のろう者たちの間ではだれもが知っているヒーローなんです。「アンドリュー・フォスター」の名前を示す固有の手話もあります(利き手の親指を立て(指文字の”A”)、首の側面を2回たたく)。私はアフリカ各地で高齢のろう者とインタビューするときに、まず「『フォスター』を知っていますか?」と聞きます。すると話ががぜん盛り上がって、フォスターと初めて会ったときのこと、ナイジェリアで一緒に勉強したことなどを懐かしそうに語ってくれます。西アフリカでろう者に会ったら、ぜひ「『フォスター』を知っていますか?」と手話で聞いてみてください(インタビューワーも即席で手話を練習)。ところが、アフリカの聴者たちは、フォスターのことをまず知りません。このように、ろう者たちの間だけで深く濃く語り継がれているもうひとつの歴史があるんです。私は現地調査で、アフリカの地名などの手話単語を収集しているんですが、それを進めていると、なんだかアフリカの歴史や地理には「手話の世界のアフリカ」といってもいいもうひとつのバージョンがあるような気がします。地名の手話単語を各地で丁寧に集めていったら、もうひとつの世界地図、つまり手話の世界地図ができるでしょうね。

聞き手:フォスターたちの事業は、その後どのように展開していったのでしょうか?

亀井氏:

【ろう者が政策に関与したナイジェリア】
ろう学校のその後については、国によって違いがありますが、一部の国では国立、公立の学校となりました。ガーナやガボンでは国が、ナイジェリアでは州政府が私立ろう学校を接収し、責任をもってろう教育にあたるようになるといったケースです。ただし皮肉なことに、行政が介入することによって財政的には安定した反面、ろう者が手話で教えるという当初の理念が後退する例もありました。たとえば産油国で豊かな国として知られるガボンでは、政府が潤沢な予算を用意して立派な校舎を建設したかわりに、手話での教育やろう者の先生の発言権という点では後退が見られました。

他方、ナイジェリアの場合はちょっと事情が違って、公立化していくプロセスで、一足早くフォスターたちの事業の中で育ったろう者の人材が政策提言や教員養成に関わったため、幸いなことに政策と手話がうまく結びついて、公教育の中で手話を使う方針が採られました。ろう教育の教員養成において手話が必修科目になっているという、実にうらやましい状況もあります。ちなみに日本では、手話は音声言語の補助手段としてろう教育の現場で容認される傾向にありますが、手話を言語としてろう学校の正式科目にしたり、大学のろう教育の教職課程で手話の言語科目を必修にしたりということはまだ実現していません。ナイジェリアでは1970年代の障害児教育や福祉政策が整えられていく時期に(ビアフラ戦争後の傷病兵対策という意味もあったという説もありますが)、大学教員や学校長などの職種を担うろう者の人材がある程度育っていましたので、政策の中にろう者の視点をうまく取り入れることができたようです。

聞き手:フォスターたちの学校を含め、アフリカのろう学校の中には寄宿制の学校もあるようですが、ろう学校に就学することで、結果として幼いうちから家族や地元のコミュニティから引き離すことになっているのではないでしょうか。手話によって、広域的なろう者の社会に加わることができると同時に、地縁、血縁とは切り離されてしまうことはないのでしょうか?

亀井氏:

ろう児の家庭の大多数は「耳が聞こえる親と聞こえない子ども」という組み合わせですが、アフリカの国ぐにでは親が手話を学ぶ機会はきわめて限られているので、親との間では家の中だけで通じるホームサインや限られた口話などの手段で生活の用をたしているようです。ろう児たちは町のろう学校で流暢な手話話者になり、授業では公用語の英語やフランス語を教わりますが、出身民族の音声言語を覚えないことも多く、耳の聞こえる親や兄弟姉妹とは別の言語集団に属することになります。北米での話ですが、先住民の耳の聞こえない子どもを、その少数民族の文化の中で育てるか、アメリカ手話にふれることができる非先住民と一緒の都会のろう学校で教育するのがよいかという論争があったと聞いたことがあり、アフリカだけでなく多民族社会では必ず起こりうるジレンマです。文化人類学を学ぶ私にとって、これは本当に難しい問題です。もっとも、ろう者たちの間では「聴者たちの民族言語文化よりも、手話を」という価値観をもつ傾向が強いだろうかなと想像しますが。それに、ろう者たちの文化もひとつではなく多様ですから、手話言語集団の中の文化的多様性を尊重することも重要なことでしょう。

ただ、アフリカのケースで忘れてはいけないのは、十分な数のろう学校ができていないために、あるいは両親がろう学校の存在を知らないために、そもそも学校で学ぶ機会がないろうの子どもたちがかなり多いということです。家族とともに村で暮らすのと、町のろう学校に行くのとどちらがいいかを選べる状況にまだなっていない場合があります。

聞き手:手話は言語としての意味が大きいわけですね。それを教えるかどうかを考えるとき、ろう者の人がそれに関わる、というのは大きい問題ですか?

亀井氏:

【手話と音声言語の共存のため、ろう者も聴者も当事者として考える】
ええ、ろう者が関わることはとても重要です。聴者たちが声で議論して決めることは、ろう者の切実なニーズや文化からずれてしまうことがあります。口話法教育も「声で話せた方がこの子のためになるだろう」という聴者の善意によるのですが、ろう者にとっては何年も苦労させられるわりには結局実用性があまりなかったというふうに、強い反発を招く結果となってしまいました。まずはそういう「立場」の違いがあると思います。もうひとつは、当たり前のことですが、ろう者は「手話の達人」ですよね。ろう者は毎日、何年も何十年も日常言語として手話を話して暮らしてきた人たちです。私は手話の勉強を始めて11年になるんですが、何年やってもとうていろう者にはかなわない。一生教えを請う立場なんです。ですから、独自の価値観や視点といった「立場の違い」、手話の経験量が圧倒的に豊かという「言語スキルの違い」、そのふたつの意味で、ろう教育や福祉政策、さらに言えば「言語政策」には、ろう者本人たちが関与することが欠かせません。ただ、すべての問題の解決をろう者に丸投げして背負わせてしまおうという意味ではありません。音声と手話のふたつの言語がうまく共存できる仕組みを考えようという意味では、聴者も一方の当事者ですから。両者が対等な立場で知恵をしぼりあうのが、ベストな進め方かなと思います。

<現実の政策形成における研究の役割>

3.聞き手:手話に関する施策において、ろう者も聴者も当事者だとのお話でしたが、そういうプロセスにおけるご自身の研究の役割についてどう考えていますか?

亀井氏:

【文化人類学者として、手話通訳者として】
ろう者はマイノリティですから、手話言語世界とそれを取り巻く音声言語世界がいつも両方見えています。しかし、聴者の側では、ろう者の存在がすっかり忘れられていることがよくあります。忘れられないために、マジョリティにはいつも思い起こしてもらうための工夫が必要でしょうし、理解不足のままで援助や提言に突っ走ってしまわないための歯止めといいますか、慎重な姿勢も重要でしょう。そのためには、ろう者本人が政策の意思決定の場に加わるのが非常に効果的だと思いますし、なにより聴者がろう者の価値観や歴史観を謙虚に学ぶことが必要です。こうした場面で、研究の成果が役立つことがあればうれしいと思います。

言語政策や教育開発など、アフリカのろう者が「こういうことをしたいんだけれどどうすればいいかな」みたいに思う課題を一緒に考えていける研究者になれればと思います。べつにろう者たちといつも政策論争ばかりしているわけではなく、どうでもいいゴシップなども含めて、ああでもないこうでもないと手話でしゃべっていることが多いのですが(笑)。ただ、そういう立場にいると、外部からもちこまれるプロジェクトについても、これは唐突で強引だなとか、これはろう者になじむだろうなということが自然と見えてきます。こういうことは、援助する側にずっといるとなかなか見えてきづらい側面かもしれません。

フォスターたちの事業は、当事者が力を付けて人生の選択肢を増やしていく、今風のことばでいえば「エンパワーメント」を、アフリカでさっさと自分たちで実行していたわけで、せめてその営みのじゃまになることはしないのが援助の出発点でしょう。かといって、現地のろう者にまかせきりでマジョリティがまるで関知しないというのは、それはそれで問題ですので、聴者たちを積極的に巻き込んでいくことも重要です。そのためには、音声と手話の間を媒介できる手話通訳者が不可欠なわけですが、アフリカの場合はそれが非常に少ない。日本ですと、手話講習や通訳者育成の機会などがあって手話を学ぶ人たちの層も広いんですが、アフリカ諸国ではそういう機会が少なく、手話を話せる聴者といえばろう学校かキリスト教会の関係者といった程度です。手話通訳者を育成することは、アフリカのろう者の人間開発を考える上で、おそらく最重要の課題のひとつだと思います。

文化人類学の役割については、研究者によっていろいろな考え方がありますが、私としては「ろう者の世界はおもしろかった、ありがとう」で立ち去って終えてしまいたくはないというこだわりがあります。聴者とは違ったニーズをもつ少数言語の人たちですので、おもしろさを学ぶと同時に、その言語や価値観に沿った政策や開発援助の提案をろう者たちと一緒にしていきたい、そういう形で調査を役立てたいと思います。忘れられないことばがひとつあります。カメルーンで研究がうまく進まず時間を空費していたとき、あるろう者の友人からキツい一言を言われました。「手話で遊ぶな、プロであれ!」と。手話講師として活躍するプライドの高い彼からすれば、手話の周辺をうろうろしているだけの耳の聞こえる研究者は、それこそ遊んでいるように見えたのでしょう。この仕事を続けるかぎり、このことばを肝に銘じておきたいと思います。

もっとも、外来手話批判を軽々しく述べていた例の失敗についての反省はかなり大きくて、実情も知らないままに現実に影響を与えてしまいかねない提言や批判というのは怖いなと思います。何年学んだらろう者の視点に沿った提言ができるようになるかわかりませんが、まずは教えてもらい、そしてそのホンネのところを紹介する仕事を続けるつもりです。私は日本で手話通訳をすることもありますが、アフリカのろう者のコミュニティに通い、そこで学んだことを外部に紹介する文化人類学の研究は、手話通訳にも似ているなと思います。異文化間を行き来する研究者の特技であり、果たすべき役割でもあると考えています。

【違いを楽しむだけでなく、力関係も含めた異文化理解教育を】
最近、ある大学で「ろう者の文化人類学」をテーマにした講義をしましたが、そこでちょっと変わったワークショップをしたのです。私がふだんどおり声で話している講義風景を撮影したビデオを、消音モードで上映します。音がまったくなく教員の口がパクパクと動くだけの授業の映像が続きますので、2,3分もすると学生たちはもううんざりした顔になってきます。上映の後、「ろう者の大学生にとっては、この状況が朝から晩まで、月曜から金曜まで、在学中4年間ずっと続きます。どう感じましたか?あなただったらどう改善したいと思いますか?」と投げかけて意見を聞いてみます。すると「口の動きはさっぱりわからない」「見ていてむなしい」「事前に資料がほしい」「教師はもっと板書しろと言いたい」「大学は通訳者を用意すべきだ」など、いろいろな主張や要望が出てきます。短い模擬体験で、聴者の学生にすべてを理解してもらうことは望めませんが、問題のありかを実感で理解し、自分の課題として解決を考えてみる機会にはなると思います。自分と異なる世界に「一時的に引っ越してみて」解決方法を探るというのは、文化人類学のフィールドワークのセンスを活かしたひとつの教育実践でしょう。学生たちの反応や着想がおもしろいのでよくこういう授業をしますが、私は文化人類学という分野にいる者として、「学ぶ」だけで終わらない、広い意味での他者理解を進める研究や教育をしていきたいと思います。

<今後の研究の展開 >

4.聞き手:今後の研究の展望について教えてください。

亀井氏:

【ろう教育事業に関する研究のさらなる展開】
フォスターたちの事業を通じてアフリカにアメリカ手話がもたらされたわけですが、それはやがて現地でフランス語やアフリカの文化の影響を受けて変容していきました。本家のアメリカにはない、かといってフランスから来たわけでもない、一種独特の手話言語がアフリカの広い地域で話されています。これはまさしくアフリカのろう者たちがつくり出した言語ですから、現地のろう者たちとともに、きちんとその手話言語の存在を世界に紹介していきたいと思います。それから、この事業はキリスト教運動という側面をもっていましたが、セネガルやブルキナファソなど、イスラム教徒の多い地域にもろう学校をつくっています。そういう西アフリカのイスラム教徒の社会で、キリスト教と一体になったろう者の文化がどう溶け込んでいったのか、あるいは溶け込んでいかなかったのか、そのあたりにも興味があります。

聞き手:最後にお聞きしますが、これからもやはりアフリカをフィールドとして調査されますか? あるいはろう者の文化を切り口にほかの地域も手がけていかれるのでしょうか?

亀井氏:

【アフリカの魅力、まだまだ何かやってそう!】
私は家族にろう者がおりますので、少なくとも日本のろう者のみなさんとは今後もつきあっていくことになりますし、研究の上でも日本とアフリカを往復しているので、どちらのろう者とも関わりが続くと思います。ただ、アフリカには、そうですね、いわく言いがたい魅力がありますね。先ほどの手話に関する政策などを見ていても、日本やヨーロッパはよくも悪くも丁寧に頭でっかちに考えすぎて、マイノリティにとってよかれと思ってガチガチに計画を固めてしまい、マジョリティの判断で物事を進めていくみたいなところがあって、ちょっと息苦しさを感じることがあるんです。アフリカでは、少なくとも私が調査しているテーマに関しては、たまたま政府の力が弱かったという見方もできますが、「自分たちの力で解決していこう」という自由さ、あるいは融通の効く雰囲気を感じます。もちろん、財政難に陥った私立学校が閉鎖されてしまうことがあるなど、いいことばかりではないんですが、まだ私たちが知らないことをいろいろとやっていそうな魅力を感じますね。音声言語の世界でも、似たようなことが言えるかもしれません。いろいろな言語政策があるにせよ、民衆はいくつもの言語を使い分けてうまく近所付き合いをしていますよね。「単一言語でなければいけない」みたいに思い込んでかたくなになってしまう社会よりも、人間の可能性の幅を感じさせてくれます。こういうふうに、アフリカには変にひとつの価値観なり枠組みにこだわってしまわない社会のゆとりを感じます。

それと、アフリカに出会ったご縁というのもあると思います。繰り返しアフリカを訪れてなじみになればなるほど、その先がまた少しずつ見えてくるという「深入りの妙味」というのがあります。となるとやはり、いっそう通いつめたいという気もちが強まるのです。ですから、体力が続くかぎりアフリカには通い続けていきたいなと思います。

 

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No.14 2007/12/7 池谷和信氏(国立民族学博物館 民族社会研究部教授)
No.13 2007/11/21 亀井伸孝氏(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 研究員)
No.12 2007/11/9 鈴木裕之氏(国士舘大学 法学部 教授)
No.11 2007/9/4 若杉なおみ氏(早稲田大学大学院政治学研究科 
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