聞き手:研究者として日本−アフリカ交流史やアフリカ経済史を長年見てきて、変わったと思われる点があるか。
北川氏:歴史にいくつかの節目があった。一つの節目は今から100年前(日露戦争の頃)、日本の国際的な地位が変わり、世界戦略議論の中でアフリカとのつながりが少しずつ出てくるようになった。
しかし、アフリカ自体とのつながりというより、日本のアフリカとの関係は、当時の国際社会の関係性の中で規定されていた。
当時、国際社会の関係の枠組みがアメリカよりむしろイギリスを中心に動いていたので、日本にとってのNormative
reference(規範的準拠)がイギリスにあった。したがって、日本が関わったアフリカ地域はイギリス植民地及び複数の列強が入ったことによって自由貿易地域となったコンゴ盆地などであった。
第二次大戦以後、Normative
referenceがアメリカに変わった。対極として、Implicitな形でのReference
pointはソ連であったかもしれない。アメリカとのつながりを通じてアフリカとの関係性が規定されるようになっていく。日本のアフリカ関与のNational
interestは主に経済上、通商上の利益だった。その場合、アメリカと関係の深い地域(南アフリカ)などへの経済進出という形を取った。
冷戦の終結でBi-polar
system(二極構造)が終わり、現在は国際社会のガバナンスをどうやって作っていくかという移り変わりの時期にあると思われる。日本としてのアフリカや国際社会との関わりとその意味、日本の位置づけが改めて問われる時期に来ている。
聞き手:日本のアフリカへの関わりについて、歴史から学べることはあるか。
北川氏:日本がアフリカとの関わりを考えるときの理由付けとして、市民(citizenship)という概念でつながることができるのではないかという議論がでてきている。
しかし、日本で、一部の研究者や学生でなく、一般の人々とアフリカをつなぐものは何か、日本とアフリカの関係を構築するには、アフリカを再定義する作業が一方で必要になる。
すなわち、かつて、(コンゴのような)列強の力の均衡の結果として生まれた自由貿易のポケットのようなところに入っていくとか、アフリカにReference
Pointがあるのでなく、ヨーロッパやアメリカとの関係を通じてワン・クッション置いてアフリカとの関係が議論されたが、そうではない議論の立て方、関係の持ち方を考える時期に来ている。
一つの考え方は、アジア−アフリカ(Asian
Africa)という地政学的(geo-political)な地域が想定されるのであれば、そこに日本が関わるというのはあってもいいのではないか。
南北アメリカ大陸の大西洋岸からアフリカ大陸のインド洋岸まで含めて「広域アジア」というひとつの地政学的概念が成り立つとすれば、そのアジアにおける目的の共通性を見つけることは可能ではないか。
(川勝平太編『グローバル・ヒストリーに向けて』藤原書店に掲載された北川氏の執筆章を参照)
聞き手:国家としてではなく、個人としてアフリカに住んだり関わった日本人は昔からかなりいたということをご著書で読んで、市民同士の交流の基は昔からあったように思ったが・・・。
北川氏:何人かのアフリカ研究者が日本人とアフリカの関係史を見ているが、関係の始期を16世紀にポルトガル人が日本に連れてきたアフリカ人に始まるポスト・コロンブス時代に見出しており、我々が学校で習ってきた西洋史観を抜け切れていない。
日本とアフリカの出会いはもっと前、例えば中国との関わり、インドとの関わりから解きほぐす方がいいのではないか。
そういうことも含めて、広域アジアという概念のなかでアフリカをとらえたときに、どういった人間の動き、つながりがあるかということを考え直すことができないか、というのが一つの視点である。
もう一点は、日本を見るときに、Japanese
Diasporaがあまり考慮されないという問題である。日本とアフリカのつながりを考えるとき、地図の二つの点の関係で考えがちだが、世界中に日本からのDiaspora(移民)がいるわけだから、そこにも実はアフリカとの関係性がある。日本の見方そのものも視点を変えて歴史的に考える必要があるのではないか。
アフリカの人たちも西欧の影響を受けているので、ヨーロッパ大陸や北米との関係で自分たちのproper
place(適所)を考えがちである。しかし、長いタイムスパンを考えてみると、そういう関係性は歴史の中でそれほど古いことではない。むしろ、インド洋を舞台としたアジアとのつながりの方が深く長い。現在の国際関係を作っていくうえでも、その視点を抜きにすると、片手落ちではないかということはアフリカの研究者によく言う。
もしアフリカの人たちに我々が何か貢献出来るとすれば、そのような議論をアフリカの人たちが読めるような言葉で書いて議論するというスタンスを大事にすることだ。
聞き手:アフリカの研究者の人たちといろいろな関わりをお持ちだと思うが、アフリカの人たちにとっても日本がアフリカに古くから関わっているというのは、目新しい情報なのか。
北川氏:そのようだ。全く知らないわけではないが、Reference
pointはアジアにはない。
聞き手:私自身も調査で古い新聞を読んだりしたが、日露戦争後の100年ぐらい前にはアフリカでも随分日本を有色人種のロール・モデルのように頻繁に論じていた。その傾向は今もある程度見られるようにも思うが。
北川氏:日本人は、かつては自らを「逸脱論」で語った。先進諸国は欧米であって、日本は先進工業国になったが、それはアジアやアフリカ諸国から見れば一種の逸脱である、と。欧米の意識も、日本ぐらいは例外でもいいんじゃないかというようなものだった。
アフリカの人たちにとっても日本は逆逸脱というか、例外として見られている。
(現在もアフリカ人からそのような距離のある目で見られているのであれば)お互いに議論して、理解を深める必要があると思う。
おっしゃるようにアフリカの人たちが日本について関心を持って論じる面があるということは分かるが、
それがどういう意味を持っているのかはよく考える必要がある。
聞き手:今我々がアフリカに入ると、どうしても援助のように、お金を持った上での関与になる。つまり何がしかの力関係があった上でのアフリカ理解ということになってしまうが。
北川氏:それを自覚して接する必要がある。大体アフリカ研究者は「調査」に行くと言う。私はその言葉には常に「調査する者−される者」というImplicitな力関係があると思う。カナダやアメリカに行くときに「調査」という言葉は感覚的に使わないのではないか。
大阪府ひとつでアフリカのいくつかの国が買えるぐらい経済力に差があるのだから、いかんともしがたい面はあるが、同じ土俵を作る努力と同じ視線でお互いに考えることが必要ではないか。
お互いに昔のいきさつを出し合ううちに、自然と現在から未来に向かっていく、そういう交流を真面目に始めなければならない。
今かなり大事な時期である。バンドン会議50年、G8でもアフリカのことが議題になった。いろいろな面で、アフリカ研究者も世論に訴えていければいいと思っている。
日本のアフリカ学には歴史研究が少ない。他の国ではアフリカ学会でコアになっているのが歴史研究だが、今のところ日本はそうではない。現代の問題を考えるのに、歴史研究はひとつの道筋を作っていく役割を果たすので重要である。アフリカのことを考える際にいくつかキーワードがある。
例えば、今出ているものだと「開発」「貧困削減」「ガバナンス」など。
私が歴史をやっている人間として思うのは、それぞれの時代にこうしたキーワードが出てくるいきさつがあるということだ。
「開発」という言葉をアフリカを再定義するために先進諸国が使ったのは第二次大戦中から戦後である。
そのときの開発論はあくまでアフリカを開発することによって欧米に利益がある、modernizing
imperialismが背後にあった。あれから50~60年経って、相変わらず同じように「開発」という言葉を使っている。その言葉が使われるようになった歴史のある時点での概念枠組みを潜り抜けた(理解し、乗り越えた)上で、「開発」という議論を組み立てないと同じことを繰り返すと思う。
「開発」ということをどう再定義するかということを通じて、それへの自分の国の関わりを再定義することを真剣に考えないと、先方(アフリカ)にとっては迷惑な話かもしれない。
私が歴史をやっている人間として、現代の「開発」とか「貧困削減」という議論を一歩引いて聞いてしまうのは、そこの概念定義の曖昧さがあるからだ。
聞き手:非常に核心を突いたお話だと思うが、概念定義の曖昧さ、同じことの繰り返し、といったことは、discourse(言説)の中に巻き込まれているときには気づかないことが多い。
北川氏:今discourseという言葉を使われたが、非アフリカのdiscourseとアフリカ内のdebateというか、discourse
without Africaとdebate within
Africaがある。我々の「開発」についてのdiscourseと、アフリカの中でそういう問題に取り組んでいる人のdebateは違う。つまり、我々はアフリカについて議論するが、果たしてアフリカに暮らしている人にどれだけ関わらせて議論しているかという話だ。言説を楽しんでいるというか、もてあそんでいるというか、それはやはりよくない。
アフリカの中で現場で取り組んでいる人の言っていることとどれだけ近づけられるか、一緒に議論していけるか、という点で努力していく必要がある。
例えば、これまで日本で行われたアフリカに関する会議では、招かれたのは、多くが欧米のアフリカ研究者で、アフリカからは少数しか招待されなかった。そういうことは往々にしてある。それは克服していかなければならない。
現在は、アフリカ研究の中心がアフリカにあるのではなく、アメリカのアフリカ研究を語るのが世界のアフリカ研究を語ることになってしまっている(全米アフリカ学会が会員数、規模で世界一)のも問題であるが・・・。
聞き手:アフリカ人の研究者も欧米で評価されることを望む。また、やはりアカデミック用語の上手な使い方というのがあって、それに乗って来れない人は参加できないとなると、どうしてもアフリカの人が少なくなってしまう。
北川氏:そして、それによってまた錯覚が起こる。むしろアフリカの中で本当に自分達のことを真剣にやっている人たちというのは案外外に出ていない。どうやってそういう人を探すかといえば、足繁く通うしかないわけだが、そういう人が言っていることのほうが面白い。
例えばタンザニアのある言語学者は、国外に出かけるよりも地元で研究を続けている。
欧米の学会にすら行かない。自分達の中で研究会を組織し、いろいろな人を招いたりしている。
聞き手:お話を伺って、日本のアフリカ研究者が、欧米の学会で評価された学者を再輸入するのでなく、現地で頑張っている研究者と独自のネットワークを作り、連携していけば、日本のアフリカ研究が独自性を持って政策にも提言していけるのではないかと思った。
北川氏:日本のアフリカ学会も本来はそういう人をお呼びしてお話を伺う機会を持ったりできればいいのだと思う。日本人のアフリカのイメージは、ステレオタイプから抜け切れない。
私がアフリカ交流史などを書いた意図は、日本には、1880年代以降、アフリカについて研究・調査した膨大な史料があるということを示すことだった。
外務省外交資料館にはアフリカというキーワードですぐに出てはこないが、かなりアフリカ関係の史料がある。
「そういう蓄積があるのに、日本からアフリカは遠いとまだおっしゃるんですか」ということを研究を通じて言いたかった。
私が『日本−南アフリカ通商関係史』を書いたとき、
「日本−アフリカ通商史について記載されている研究書や資料が欧米で沢山出されているにもかかわらず、この本には、外国語の文献がほとんど使われていない」という批評を受けた。実は、その逆を考えてみたかったのだ。すべてとは言わないが、日本のアフリカ学者ですら、思考の概念枠組みは、欧米志向ではないだろうか。
聞き手:そういうメンタリティは日本全体にあるのかもしれない。現在の日本のアフリカ援助においても、欧米に乗り遅れてはいけないという発想があるのではないか。
北川氏:「欧米並み」というのは日本のキーワードのようになっているが、開発援助にしても、独自のものが必要だと思う。それは何かといえば、日本のアフリカとの交流の歴史を押さえた上で議論を組み立てなければいけないというのが私の持論である。
(了) |